令和源氏物語 宇治の恋華 第二百四十話
第二百四十話 夢浮橋(七)
浮舟は尼君の顔色を読んで、僧都の手紙に何が書かれているのかを悟りました。
薫君が我が背であったこと。
僧都が還俗を促しているのであろうことも。
この期に及んでよくも隠し立てしたものだと尼君に呆れられるのも辛く、物を言うこともできません。
しかし尼君は姫を強く責めることはしませんでした。
来たるべき時が訪れたのだ、と竹取の媼の気持ちがわかるようです。
「あの小君という子は薫さまのお遣いなのですね。どうやらあなたに面差しが似ているようだけれど弟ではないの?」
そう言われて御簾越しに寄ると、縁側に畏まる弟の姿が見える。
己を亡くしてしまいたいと願った折にも母と共にこの世への未練となってまざまざと思い出された懐かしい小君。
浮舟は堪えきれずに涙を流しました。
会えるものならば優しい言葉のひとつもかけてやり、母上は今どのように暮らしていられるのかを尋ねたいところですが、短くなった髪を晒すのも恥ずかしく、尼として生きることを母が知ったならば嘆かれるであろう、と躊躇われるのです。
「ねぇ、直にお会いになった如何かしら?出家したとはいえ本当のところ肉親の情は断ち切れないものですよ」
逡巡を見て取った尼君は同情するように穏やかに説得しましたが、浮舟の心は頑ななのです。
「どうやらこのお手紙にある大将の君の探されておられる方というのはわたくしのことであるようですね。尼君さまが隠し立てをなさるとわたくしを憎まれるのもごもっともでございます。しかし、わたくしは本当にそのような心はありませんのよ。一度は彼岸に足を向けたこの身、どうやらその時に以前の記憶をあちらに置いてきたようでございます。あの子供の顔は確かにどこか懐かしく感じられて涙が止まりませんが」
そうして袖で涙を拭う姫の言うことを尤もかもしれぬ、と頷く尼君ですが、それならばそれで小君との対面を拒む要因とはなりえまい、とまた深く溜息をつくのです。
「尼君さま、その大将の君には僧都さまを通じて人違いであった、というように伝えていただくわけにはまいりませんでしょうか?」
「まぁ、なんということを。兄上に嘘をつけとおっしゃるのですか?御仏の法に従い人生を送ってきた聖にそのようなことが言えるとお思いでしょうか?また兄上もそのようなことはできませんでしょう」
浮舟はなんと失礼なことを申し上げたかとはっと血の気が引いたように身を強張らせました。
尼君は薫君とのことが姫を頑なにさせているのだと察しましたが、そこまで拒まれるとは君は姫に無体なことをしたものか、果たして慕う女心がそうさせるのかわかりません。
ただ事の異様さに心細げな顔をして控える小君が不憫でならないのでした。
さすがに弟の声を聞けば姫の心も解けるのではないか、と尼君は縁側へ姿を現しました。
「尼君さま、これはいったいどうしたことなのでしょうか?私は初めて右大将さまに大役を任されてこちらに参りましたのに、このままではしくじって信頼を失ってしまうでしょう」
「あなたは幼くてもたいそうしっかりしていらっしゃるのねぇ。お手紙の先の方はたしかにこちらにおられるようなのですけれど肝心の御方はわたくしたちが説得しようにも耳を貸そうとしません。あなたは大将の君に信頼されるほどの御子ですから、自ら何か話しかけられてはいかがですか?その方というのはあちらの御簾の奥におられますのよ」
母屋の御座所に導かれた小君は御簾の奥を伺おうとしますが、几帳に遮られて姉の姿が見えるはずもありません。
几帳の隙間から覗く浮舟は弟の姿を懐かしく眺めておりました。
以前よりも立派な装束を身に着けて、落ち着いた賢げな様子に成長を感じずにはいられません。
すぐ手の届く場所にありながら話しかけることもできぬとはなんと辛いことか。
いっそ何もかもを考えずに小君と抱きしめてしまおうか。
尼君にそのように勧められても世慣れぬ幼い童がどうして機転を利かして頑なな姉の心を動かすようなことが言えましょう。
「よそよそしくはっきりしない扱いをされ、どうやら私を他人とお思いのようですのに何を申し上げられましょう。私は右大将さまに顔向けできませぬ」
拗ねたように訴えるのが小君の姉への精一杯の抗議なのです。
「あなたは右大将さまをお慕いしていらっしゃるのねぇ」
「はい。近衛の大将と凛々しくていらっしゃるのにいつでも優しく、私のような身分低い者にでもお声をかけてくださいます。私は何としても大将さまのお役に立ちたいのです」
その小君の真摯な訴えに浮舟の脳裏には恋しい薫君の御姿が浮かぶ。
二条院で初めて君を垣間見た折にも女童に優しく接していられたのに心惹かれたときめきを思い出すのです。
あの御方の愛は静かで温かく、強烈に惹かれた匂宮の愛情とは異なった、永遠をたゆたうような幸福に満ちていたことを今になって思い知る。
やはり再びお会いしようなどと御仏にも許されることではない。
「いまひとつのお手紙はどうしても人伝てではなくお渡ししたいのです」
「それはごもっともなことですわ」
それが薫君からの文であると察した尼君は御簾の内に入って姫を説得しようと試みるのです。
「もう強情をはるのはおよしになったらどう?一度は夫婦であった君のお手紙でしょうに、あまりにも人情味がないではありませぬか」
それでも拒まれているような気配を感じた小君は几帳の下からさっと手紙を差し入れました。
「もうこれ以上は何も申し上げません。お返事をいただいて帰ります」
一言も発しようとしない姉の仕打ちが辛くて、小君は涙を堪えて悔しさに袴を握りしめると悄然と俯きました。
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