見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第百三十八話

 第百三十八話 浮舟(二)
 
あの人を喪って幾度の秋を過ごしたことだろう。
 
大君を偲ぶ長く険しい宇治への道行きが黄泉路であるように思われて、この時ばかりはいつでも神妙な心持ちに立ち返る薫なのです。
そして大君を想う度に甦るかの女の面影を宿した美しい姫君にときめきを覚えるのはやはり亡き人への執着ゆえか。
そうかといって即座に姫君を手に入れることはできません。
皇女を妻に持つ薫が受領風情の姫に言い寄っているということが露見すれば姫宮のご身分に疵がつくことでしょう。
自ら望んで姫宮を賜ったわけではありませんが、自分を信じ切った可憐な宮をお守りすることが薫の男としての責任なのです。
宇治の山は紅葉も盛りとなり、天は高く清しい風が吹き渡っておりました。
迎えてくれる弁の尼が変わらずに元気そうであるのを昔のままであると思われるものの、やはり尼削ぎ姿を目の当たりにすると寂しくなるものです。時が過ぎたことをまざまざと思い知らされるのでしょうか。
「薫さま、遠路はるばるありがたく存知ます」
「なに、私にできるのはこのくらいしかないのでね」
弁の尼はやはり何年経ても心を変えぬ真面目な君に心を寄せずにはいられないのです。
薫君ももう三十路にさしかかり、変わらぬ細面は端正で美しく、円熟して風格が漂う様はやはり並の器とは思われません。
もしも柏木の君がこの頃の年齢であったならばやはりこのようであったに違いないと思うと、その御姿が眩しく感じられるのでした。
世間話が一段落すると尼君は宮の姫の近況を薫に報告しました。
「先日例の常陸の守の北の方から便りをいただきました。どうやら邸内で何やらあったようでございますよ」
「それはどういう仔細なのか?」
「ええ、そもそもは左近の少将さまが発端だったらしいのですが・・・」
弁の尼は縁談が常陸の守に横取りされたことなどをさらりと話しました。
「左近の少将は野心家だな」
薫はくすりと笑いました。
「しかし北の方は私の申し出を信用されなかったのだな。それで他に婿を探そうとなさったのか。誠意が伝わらなかったのは残念なことだ」
「薫さまの御身分が立派過ぎて受領の北の方には畏れ多かったのでございましょう。分に見合ったご縁をと望まれたのですわ。母親なれば過分な幸せが娘を不幸にするのではないか、という惧れがございましょう」
「うむ、そういうこともあろうな」
それが母親というものであろう、そうあってほしいものだ、と薫は自分を顧みなかった母・女三の宮を脳裏に思い浮かべたのでした。
「でも北の方は薫さまをじかにご覧になって御心を変えられたようでございますわ」
「ははぁ。いつぞや二条院にお越しになっていたようであるからな」
「ええ。ですが、現在は方角が塞がる事情などもございまして姫君は三条辺りの小さな邸に移られているようです」
「なんと知らず近くにきていたとは迂闊であったな」
「そのお邸は手狭でまだ整ってもおらず、北の方はこの縁ある宇治へ姫君を預けたいと仰せですが、何分この山道ですから躊躇なさっておられます。実際のところこれまで金銭的に自由にしていた分まで夫に取り上げられてしまったようで儘ならないのでしょう。それでこちらに事情を知らせてきたのですわ」
「そういう次第であったか」
薫が思案するように巡らせるのを弁の尼はじっと決断を待ちました。
「弁、これは私にとっても願っても無い好機である。何分姫宮の対面を保たねばならぬ身の上ゆえ思うように動けなんだが、宮の姫を迎えるのにもってこいではないか。母君もそのように望んでおられるように思われるが」
「仰せの通りでございましょう」
「弁を見込んで頼みたい。自ら京に出向いて姫を迎えてはくれまいか」
「わたくしがでございますか」
「ああ。そなたにしか頼めぬ」
心苦しそうに顔を歪める君を見るまでもなく尼君の心は決まっているのでした。
「仰せの通りに致しましょう」

次のお話はこちら・・・



この記事が参加している募集

#古典がすき

3,980件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?