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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百二十八話

 

第二百二十八話 山風(八)
 
「まぁ、そうとは言っても手前味噌ですが、私はやはり薫君贔屓なのですよ。実は君が宇治へ渡られたのは愛した女人を弔う為であったのです」
「そうでしたの」
「はい。かつて宇治には桐壺帝の故八の宮さまが隠棲なさっておられましたが、その宮さまには二人の姫君がいらっしゃったのです。薫様はその姫君を愛されました。残念ながら姫は亡くなってしまわれましたが、妹姫さまに通われていたんでございますよ。それがねぇ、どうした理由かその姫君もお亡くなりなってしまわれて」
「聖の親王様の妹姫というのは匂宮さまの北の方でいらっしゃるのではなかったの?」
「実はいま一人姫君がおられましてな。身分の高い腹からではなかったようで公にはされませんでしたが、薫君はたいそう愛されていたようでございます。何しろ一周忌をねんごろに執り行う為に山の律師までお召しになってこまごまと指示を与えておられましたから」
「そんな姫がいらしたのねぇ」
浮舟は自分のことが口の端に上るのも気恥ずかしく、また薫君が自分を忘れずにいてくれるのが嬉しくて、顔も赤らむのを気取られまいとあさっての方角を向いております。
「薫君という御方はあまりご自身を表現なさらないのですが、私は長く仕えておりますのでよくわかりますとも。心がお優しく、亡くした女人も大切に偲ばれるような情の厚い御方なのです。君が宇治川を臨む階に佇んで詠まれた歌には胸を打たれました」
 
 見し人は影もとまらぬ水の上に
     落ちそふ涙いとどせきあへず
(愛しい姫君よ。御身はこの川に身を落として果てたが私の涙が後を追う様に川に注ぐのをどう思われていることだろう。今日はまた一段とその涙を堰き止めることができまいよ)
 
「薫君は世の誹りを物ともせずに亡き姫君の係累までも引き立てていらっしゃるのですよ。なかなかどうしてできるものではありませんでしょう」
「ほんに。親族までも引き立ててもらえるなどと、亡き姫もきっと浮かばれるでしょうねぇ」
浮舟は気分が悪くなった風を装って御座所を静かに退出しました。
しかしその面は涙に濡れて、感動に打ち震えているのでした。
とうに捨てた世であるのにその胸は瑣末な風に乱される。
やはり薫君は素晴らしい御方であると懐かしく、慕わしくてならないのです。
それにしても匂宮という殿方は、あの橘の小島で常盤樹が緑を変えぬようにその愛も変わらぬと誓ったものが、すべてその場限りの口当たりのよいものであったかよ、とまやかしの言葉を信じて酔いしれた己が許せなくなる浮舟なのでした。
 
ああ、わたくしはあの薫さまを裏切ったからこそこうして生き恥を晒しながら永らえる罪を得たのだわ。
なんと愚かであったのでしょう。
 
浮舟は堪えきれずに人気のないところで嗚咽を漏らすのでした。
 
紀の守は庵の方々に浮舟君の一周忌を司る僧侶たちに与える布施として女用の装束を仕立ててくれるよう依頼して帰ってゆきました。
尼君は染物が得意なので張り切って反物を染めあげ、他の尼たちも装束を仕立てるのに忙しく針を動かしますが、浮舟は自分の一周忌に配られる装束を自身が縫うのも不吉であると思われて加減が悪そうに臥せっております。
「姫や、あなたは縫物が得意なので手伝っていただけるとありがたいのだけれど、お加減は如何?」
「尼君さま、申し訳ありません。どうにも気分が優れませぬもので」
「無理をなさらないように。もしや色とりどりの装束を前にして昔のことでも思い出されましたか?」
「何やら思い出したような、そうでないような」
曖昧な物言いをする姫に尼君は深い溜息を漏らすのです。
「思い出されたこともあるでしょうに、いつまでも隔てを置かれるのは寂しいことですわ」
そのように恨まれるのは辛いのですが、もしも自分が亡くなった時にすべてが明らかになり、薫君との関わりなどが露見したならばよくも隠し遂せたものだと呆れられるに違いない、とまた浮舟は気が塞ぐのです。
しかしこうして永らえていることが薫君に知られれば恥ずかしさのあまりに生きてはゆけぬ、という矜持の方が強く、どうあっても素性を漏らすわけにはゆきません。
「本当に何も思い出せないでおりますのよ」
悲しげに俯くかわいい姫をどうして責めることなどできましょう。
「あなたを責めているのではないのです。わたくしがあなたの実の生みの母であるならば行方不明になった娘を諦めきれないと思いましてねぇ。姫がすでにこの世にないということが明らかになっても、どこかに生きているのでは、それならば居場所を尋ねたい、という気持ちがあるもので、愚かと言われても娘を求めずにはいられないものなのですよ。母親というのはそういう生き物なのですわ」
尼君のおっしゃることはもっともなこと、と浮舟は実の母君がどうしていられるか思わずにはいられません。
「本当に、わたくしの母君が存命であらせられるならばそのようにわたくしを思ってくださっていることでしょう。それにこの尼姿を目の当たりにすればきっと悲しまれるに違いありませんわねぇ。おお、わたくしはなんと親不孝な娘でございましょうか」
そうして涙を流す姫の姿が萎れた花のようで哀れをそそるのを尼君も亡き娘を思って共に泣くのでした。

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