令和源氏物語 宇治の恋華 第二百四十一話
第二百四十一話 夢浮橋(八)
手紙を見ようとしない姫君の情の強さに辟易しながら尼君が手紙を開き、美しい手蹟が現れたのを覗き見る他の尼や女房たちも感嘆の声をあげる。
法の師とたづぬる道をしるべにて
思はぬ山に踏み惑うかな
(僧都に教えを乞う為に分け入った山道で、あなたを求める道に踏み込み惑うているのですよ)
「まぁ、なんと雅やかなお手蹟(て)ですこと」
「この香りは極楽浄土のものかと思われるほどに高貴でございますわね」
手紙に焚き染められた香は薫君のそれと交じって馥郁なえもいわれぬ芳香を立ち上らせるのです。
ああ、昔そのままのお手蹟にこれは懐かしい君の薫り。
心が揺さぶられて、流れる涙を止どめることはできません。
袖で涙を隠して目を背ける姫を見て、尼君は勇気づけるように言いました。
「今ならば遅くはないのですよ。愛する方の元へお戻りなさい」
尼君の言葉があまりにも優しく胸に沁みこむもので、浮舟はそのまま己を保つことができそうにありません。
本当に昔のように君の側に戻れるならばそうありたい。
しかしながら宮とのことが知れた時の君の冷淡な心を忘れられぬのも事実なのです。
女としての人生を捨てて出家した身となっても、否、今だからこそ恋しさを拭えぬのか。
「わたくしはもはや御仏の弟子でございます」
喉から絞り出すような声は苦しげでありながらすでに決別を違えぬ意思に満ちているのです。何か事情があって己をもなくそうとした姫のこと、涙に打ち臥す姿が憐れでこれ以上の無理強いはできません。
「それではせめてこのお手紙の返事は差し上げなさいませ。たといそれが今生の別れとしてもよいではないですか?あの可愛いらしいお遣いのためにもどうか返事を」
「わたくしは彼岸に足を向けてからもう以前のわたくしではないのです。宛先違いとこのお文を返してくださいませ」
浮舟はその手紙を畳むと元のようにではなく、変わった結び方をして尼君に手渡しました。
これこそ浮舟の返事に他なりません。
浪越ゆる頃とも知らず末の松
まつらんとのみ思ひけるかな
あの匂宮とのことを当てこすり、恨んだ薫君の手紙を結び直して返した物と同じく結んだ文。
とっさではあったものの、自分の存在を薫へ知らせる女心か、きっぱりと決別を告げる為のものか。
それは薫君の心にこそ映されるのです。
尼君は仕方なくその手紙を小君へ渡しました。
「姫は物の怪が憑いておられるようで、常でもお悩み続けなさるのでご出家なさった次第ですの。今もお加減が悪いようでお返事は出来ぬようです」
「私は初めての遣いも満足に務めることができないのですね」
「事情を話せばわかってくださる大将の君に違いありませんよ。そうしょげずに湯漬けでも上がってゆきなさい」
優しげに慰めてくれる尼君を有難いと思うものの、落胆のあまりに身の置き処もない小君なのです。
「これ以上の長居は無用でございます。甲斐の無いことでした」
そうして京へ戻ったのでした。
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