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令和源氏物語 宇治の恋華 第二百十七話

 第二百十七話 小野(十一)
 
まったく喜びなどこの身には似つかわしくない。
ほんのひととき楽しく碁を打っただけで浮舟は後悔の念に苛まれておりました。
 
わたくしは楽しい思いなどしてはならぬ身であった。
生かされたことに罪を感じる身にはこうした気持ちがいつでも心の底に横たわるもので、その分落ち込む振り幅も大きいのです。
 
世を捨てればこれほどの物思いに振り回されずに済むであろうか。
御仏だけを拠り所とすれば心は乱されずに過ごせるのであろうか。
 
そればかりが浮舟の胸を去来するのです。
秋風はわびしい。
弱っている心に吹き込まれると過去のことを思い出さずにはいられないのです。
 
 心には秋の夕をわかねども
     ながむる袖に露ぞみだるる
(過去を捨て去ったはずのわたくしには秋のゆうべのもの悲しさや寂寥を解する心はないはずであるのに、知らず涙がこぼれて袖を濡らすのはどうしたことか)
 
心を捨て去ろうとする浮舟は誰よりも情趣を解する女人なのです。
それゆえにもう殿方を受け入れることはないのを誰も知りえないのです。
その姫の心を踏みにじるかのごとく訪れた中将はとてもみなが言うような心ざまの深い人物とは思えません。
月が鮮やかに差し昇り、これほど秋の夜のあわれを催す宵はありませんでしょう。
中将の気持ちは今最高潮にまで高揚まっているのです。
今宵こそは、という想いで訪れたであろうものを浮舟とて察することのできない初心な娘ではありません。
御座所の奥へ引き下がるのを愚かな少将の尼は咎め立てするのです。
「逃げ隠れなどみっともないですわ。お訪ね下さったご親切を無下にするのも思い遣りのないことでございましょう。身に沁みる秋の夜ですのよ」
「ではあなたがお相手なさればよろしいのではございませんこと」
「それとなく中将さまのお話しを聞いて差し上げればよろしいですのに。あまりに頑なのは片意地を張りすぎで情緒もありませんでしょう」
それで踏み込まれでもして無体なことをされれば今度こそ御仏が禁じる自死を為して見せようという気概をもつ姫の心を少将の尼は知るまい。
この期に及んで世にある誰の意に従うことなど致そうか。
「わたくしも初瀬にお供したと不在の旨を伝えてくださいまし」
浮舟はそう言って逃れようとするも、中将はすでに下働きの者たちから姫だけが残っているのを把握しているのです。
少将の尼に恨み言をつらつらと述べて簡単には帰ろうとはしません。
「姫君からのお言葉はなくともよいのです。ただ私の思うところを聞いていただきたい。それでどんな男かを知ってもらえれば如何ように判断されても本望でございます。それにしてもこのように冷淡なのが恨めしい」
ここまで言われると少将の尼も力になって差し上げたいと思わずにはいられません。
中将の歌を姫に取り次ぎました。
 
 山里の秋の夜ふかきあわれをも
      物思ふ人は思ひこそ知れ
(物思う者同士なれば山里の秋夜のあわれを分かち合うことが出来るでしょう。どうかお話を聞いてください)
 
「尼君がおりませんので、お返事も差し上げないのはみっともないことでございます」
頼んでお越しいただいたわけでもないものをなんと勝手な言い分か。
 
憂き物と思ひも知らで過ぐす身を
      物思ふ人と人は知りけり
(この世を離れようと憂きことからも置く身が物の哀れなど知りようはずもないのです。心を通わせるはずなどありませんでしょう)
 
もしやこの尼が中将を引き込むのではあるまいか、と浮舟は不安に苛まれ、そうなったならばあの尼君が喜ぶに違いないと思われるにつけても我が身が情けない。
少将の尼は浮舟が口ずさんだ歌を中将へと伝えました。
内容はともかく初めて姫が自身で詠まれた歌であるからと中将は嬉しくて仕方がないのですが、それで有頂天になるとは、なんとまぁ愚かな殿方であることよ。
「やはり少しでもこちらにお出でになるよう伝えてはくれまいか」
必死に少将の尼に縋りますが、姫君の心はなかなか変えることはできまい、と深い溜息をつく尼なのです。
「情のこわい御方ですのよ。とてもこちらに来られるとは」
「そこを重ねてお願いしているのだよ。頼む、少将」
「言うだけは言いましょうが」
そうして姫君の御座所に戻った少将ですが、姫の姿が見当たりません。
「お姫さま、どちらにいらっしゃるのですか?」
姿を隠しているのに返事なぞ返ってこようもないであろう。
少将が姫の姿を求めてあちこちの部屋を覗くと普段は入りもしない尼君さまの御座所で息を潜めているのでした。
「まぁ、そのようになさらなくても。引っ込み思案にもほどがありますわ」
少将が如何に呆れようともかつて匂宮によって蹂躙された浮舟はその記憶が胸の奥深くに刻まれているのです。
「まさか中将さまが無体なことをなさるはずもありませんでしょう」
そのような下心無くばどうしてこの人少ない折を見計らってしつこく面会を求めるものか。浮舟はこの尼の軽率さを憎く思いました。
仕方なく少将の尼は姫の様子のありのままを中将に伝えました。
「このようなさびれた山里で物思いに沈む姫が可哀そうだと同情を寄せておりましたが、これではあまりにも物の道理をおわかりではない」
「まったくおっしゃるとおりで」
などと、中将に同情する尼ですが、好いてもいない殿方に従うことが物の道理というのならば、あまりにも傲慢で、女人にとっては酷なことでありましょう。
「ともかくも、どうしてそうも男性を厭うのか知りたいものですね。よほどの浮気男に逢って懲りられたのでしょうか」
姫の素性はわかりませんので、その過去のことなどましてや知るはずもない尼はただ茫洋と当たり障りのないことを述べるばかりです。
「長く疎遠であった姫君を御引取りした、ということだけで何も知らされてはおりませんの」
中将は期待以上の答えが返ってこなかったもので、がっくりと肩を落としたのでした。

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