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令和源氏物語 宇治の恋華 第九十九話

 第九十九話  迷想(九)
 
帝は愛娘・女二の宮の御座所を訪れました。
この春で十五歳になったばかり、赤味を帯びた頬はふっくらと愛らしく、母君よりも落ち着いて気品のある姿は女一の宮の美貌にも劣りません。
「姫や、今日は何をしてお過ごしだね?」
帝は度々気楽に姫宮の御座所を覗かれるので、一国の王ではない、父親らしく親しみやすい笑顔を浮かべておられます。
姫宮もにっこりと微笑まれました。
「はい。お父上さま。昔の和歌集などを見ておりました」
「ほう、姫はどのような和歌がお気に入りか?」
「はい。最近の歌もようございますが、やはり万葉集などは面白うございますわ。わたくしはこの内裏を出たことがありませんので、山野の風趣を詠み込んだものなどはことさらに想像力が掻き立てられて興味深うございます。防人の歌にある“海”なるものもどのようなものかと考えるだけで楽しゅうございます」
「うむ、うむ」
そのいらえに若い姫らしい好奇心と理知の光があるのを満足そうに頷く帝は、やはりこの姫には薫中納言のような学問にも造詣の深い貴公子が最適であると考えずにはいられません。
「今日はこの父と楽でもいたそうか」
「はい」
帝は和琴を、姫宮は華やかな音色の筝の琴を爪弾き、音を合わせ始めました。
帝が和琴を得意とするのはその昔柏木の大納言が手ずから指導した賜物なのです。
姫宮の爪弾きがはらはらと舞い落ちる桜の花のように揺らめくならば、父君の和琴はその桜びらが水面に及ぼした波紋の如く深く響く。
女二の宮は父帝の奏でる妙なる調べにうっとりと耳を傾けました。
「お父上さまの和琴の響きは豊かで美しいですわ」
「うむ、その昔柏木の大納言という和琴の名手がおってな、私がまだ東宮であった頃その者に手ほどきしてもらったのだ。あれから修練を重ねたが柏木の手には及ばぬなぁ」
「まぁ、そんな御方がいらっしゃいましたの。その大納言さまは今どちらに?」
「病を得て若い身空で儚くなってしまったよ。笛なども得意で才気溢れる素晴らしい若者であった。姫もよく知っておろう夕霧の左大臣は柏木とは親友でな。ひと昔前は当代一、二と並び称される貴公子だったのだ」
「あの夕霧さまと並び称されるとは素晴らしい御方でしたのね」
「まったくもって惜しいものよ。生きておれば必ず大臣にまで上っていたであろうに」
帝は昔を懐かしむような遠い目をしておっしゃいました。
「琴の合奏も悪くはないが、ここに笛があれば尚よいな」
「そうですわね。当世笛の名手といわれれば、どなたさまなのでございましょう?」
姫宮が少女らしく首を傾けるのを愛らしく思召す父帝です。
「そうさなぁ、やはり薫る中納言であろうか。笛だけに限らぬが名器は自然と持ち主を選ぶもの。かの柏木が所有しておった“清雅”という名笛が薫の手にあった。薫は和琴などもなかなかよく弾くぞ」
「薫る中納言さまのことは噂で聞いたことがありますわ。その名の通り身から芳しい香りが立ち上るとか」
「おお、まこと薫は何をせずとも香気があるのだよ。そしてその香りは他の香りとまつわってさらに得も言われぬ芳香を生むのだ」
「不思議なお話ですわ。よほど神仏のご加護のあつい御方なのでしょうか」
「さもあらん。薫は御仏の教えにも熱心でな、そこいらの僧侶などは足元にも及ばぬほどだというぞ」
「そのような御方がいらっしゃるのですねぇ」
ほうっと溜息をつく姫宮を見て、薫に関心を持ちよい心象を描いていると感じた帝は、やはり婿となるには薫中納言しかおらぬ、と決意を固くされたのでした。


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