見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第百七十六話

第百七十六話 浮舟(四十一)
 
恋する男を演じて時方は内舎人の目を掻い潜り侍従の元へと辿り着きました。
嘘を誠のように見せるには、半分は真実で残りは虚構であるというのがもっともらしくすべてを隠し遂せるという手法をご存知でしょうか。
「私は侍従が二条院に居られた頃からの仲なのですよ。それを遠い山道もものともせずにやってきた恋を邪魔しようというのか」
時方の侍従への恋心がまことなれば、人情ある者は目くじらを立てるのを控えるものです。首尾よく侍従の元へ忍びこんだ時方は侍従を抱きしめながら宮がお越しになっていることを告げました。
「侍従、助けておくれ。宮さまはそこまでいらしているのだよ。どうしても浮舟君にお逢いしたいという一念に危険を圧して来られたのだ」
「まぁ、なんということでしょう。それは姫さまとて宮さまにお逢いしたいに違いありません。しかしこう警備が厳重ではそれも叶いませんわ。ここは無理をなさらずに、共にうまく姫君を京にお迎えする算段を致しましょう。今は焦らぬことが肝要ですわ」
「あなたのその言葉が宮の御心を大きく動かすことになる。侍従、私を少しでも想ってくれるのであれば、どうか御身の直の言葉を宮さまにそのままに伝えてはくれまいか。浮舟君に近しいあなたの言葉なれば宮さまもこれ以上の無分別はなさらぬと思うのだよ」
「このお邸から抜け出ろとおっしゃるの?警備の者がうろうろしてますのよ。見咎められれば恐ろしいわ」
「侍従よ、これはあなたの主人のためでもある。我が君、匂宮さまが浮舟君を無事に迎えられれば我々にも明るい未来が来ようとは思わぬか」
男の甘い囁きに抗しきれぬのは女の性でございましょう。
「承知しました」
侍従の君は勇気を振り絞って未来に向けて一歩を踏み出したのです。
 
匂宮はとても親王とは思えないご様子で戸外に佇んでいられました。
恋にやつれて憔悴しきり、いつもの光りがまるで翳ったようにあられる。
山路を踏み分けて粗末な狩衣を纏った御姿はとても天位に上るほどの高貴な御方とは思えませんでした。
 
恋とはこのように輝くばかりの人をも苛むものか。
 
侍従は女人への愛に全身全霊を掛けるその姿勢に感動さえ覚え、ますます宮に傾倒してゆくのです。
女であれば誰であれそのように烈しい恋に身を焼かれたいと願うのでしょう。
「お労しゅうございますわ。薫君さまはどうしたことからかお二人の関係に気付かれたようでございますの。もちろん側近の者たちは信用におけますが、見慣れぬ使者などから秘密は明らかになったようでございます」
悲しげに涙を流される宮に侍従はかける言葉もありません。
「ほんの少しばかりでも浮舟には逢えないのか」
恋する男の素直な訴えを聞くことのできる侍従であったならばどれほどよかろうか。しかしながら今宮が見咎められれば気の荒い男たちにどのような無礼を強いられるかと気が気ではありません。
「宮さま、今は堪える時ですわ。姫をお迎えになられれば万事うまくゆきますでしょう。わたくしは浮舟さまの為に砕身する所存でございます」
「お前だけが頼りなのだ。頼むぞ」
夜が更けても山荘の警護者たちの緊張は解けず、放たれた犬たちまでも吠えてまわるのが恐ろしい。
「火の用心」
と声高らかにその存在を示されて、宮は泣く泣く京へ戻るしかないのです。
「侍従、お前ももうお帰り。いつしかみなで笑い合える時が来るとよいな」
「はい、宮さま」
そうして侍従は姫君の元へと戻ってゆきました。
 
 いづくにか身をば捨てんと白雲の
     かからぬ山も泣く泣くぞ行く
(あなたに逢えない虚しさにどこへこの身を捨てようかと悲しいばかりです。白雲のかかる山路を泣く泣く京へ帰ってゆきますよ)

次回、『令和源氏物語 宇治の恋華 第百七十七話 水鏡(一)』は6月19日に掲載させていただきます。
明日は『光る君へ 第24話を観て』ドラマ感想文を掲載させていただきます。


この記事が参加している募集

#古典がすき

4,004件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?