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令和源氏物語 宇治の恋華 第百七十八話

 第百七十八話 水鏡(二)
 
「姫さま、どうか少しでも何か召し上がってくださいまし」
年老いた乳母が落ち窪んだ目をしばたかせながら懇願しますが、浮舟は食べるという欲を失くしてしまったかのように臥せるばかりです。
思えば幼い頃からこの乳母は東の片田舎に下向するとあっても付き従って、わたくしを見捨てずによく尽くしてくれたものだ。
あの二条院にて匂宮に会った折にも、相手は身分の高い宮さまであるのを承知で身を挺して庇ってくれました。
その面に刻まれた深い皺が歳月を感じさせて、今や薫右大将に迎えられる身の栄えと喜ぶこの人が、自分が居なくなればさぞかし打ち捨てられたように落ちぶれるに違いない、そう考えるだけでも不憫でならない浮舟なのです。
ここ数日の姫の憔悴ぶりに右近の君も尋常ではないと感じておりました。
「姫さま、あと数日で匂宮さまからのお迎えが参りましょう。ほんの少しの辛抱ですから、どうかゆっくりとお休みくださいまし。侍従と二人、必ずや御身を宮さまの元へ行かせて差し上げます」
そのように励まされれば励まされるほどに物思わしく涙が止まらない。
 
絆の深い母娘の間にはやはり身は遠く隔てられていても特別な繋がりというものがあるのでしょうか。
母である常陸の守の北の方はその日たいそう夢見が悪く、痩せ細った娘が暗がりで嘆く姿をありありと見たそうな。
背を向けて何処かへ去らんとする娘を声の限りに呼ぼうとも、手を伸ばしても濃い霧が視界を塞いでままならぬもどかしさにびっしょりと汗をかいて目覚めたのです。
これは何事か姫に出来したか、と感じた母は即座に手紙をしたためました。
 
わたくしのかわいい姫、お加減が悪いと聞きましたが如何でしょうか。
いよいよ薫君に迎えられるとなると、きっとご本妻のことなども気に病んで塞ぎがちになることでしょう。しかしただ薫君を信じて鷹揚に構えてゆくのが女人として賢い身の処し方と思召せ。
姫宮さまは気高く寛容な御方と聞きますので、万事控えめにしておればきっと何事もうまくゆくでしょう。
姫の幸せだけがわたくしの願いでございます。
すぐにでも宇治へ飛んでゆきたいのですが、末娘が物の怪に憑かれたように苦しむものでこちらの邸を空けることができません。
どうか山の阿闍梨さまにお願いして御身も健やかに過ごせますよう御祈祷などをして心安らかにお過ごしください。
それでは京にての再会を楽しみにしております。
 
浮舟は母の言うように京で会えるということが本当にできればどれほどよいか、とまた涙が溢れてくるのです。
阿闍梨への読経のお布施なども使者に持たせて、このように自分を思ってくれる母を遺して逝かねばならぬ苦しみは大抵のものではありません。
浮舟は涙を滲ませながら母君へ返事をしたためました。
 
 後に又あひ見むことを思はなん
     この世の夢に心まどはで
(来世にまたお会いできるよう祈っていてくださいませ、お母さま。どうかこの世の瑣末なことに惑われませぬように)
 
このまま何食わぬ顔で薫君に迎えられれば、という甘い考えも浮かびますが、後ろ暗さに君をまっすぐと見つめることもできぬのに、どうしてその先を生きてなぞ行けようか。
 
母君の遣いが山寺へ着いたのでしょう。
山間に響く読経を母の真心と聞きながら浮舟はまた気怠く臥してしまうのです。
 
 鐘の音の絶ゆるひびきに音をそへて
      わが世尽きぬと君に伝えよ
(読経の鐘の音にわたくしの涙も添えて、わたくしは死んでいったと君に伝えてくださいませ)
 
この“君”とは薫君であるのか、匂宮であるものか・・・。
 
浮舟はこれを母君への最期の言葉として、使者が持参した巻数(かんず=誦経したお経の名と度数を記した巻物)の端に書きつけました。

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