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令和源氏物語 宇治の恋華 第百十一話

 第百十一話  迷想(二十一)
 
所詮人を恋うるなど己には分に過ぎたることか。
 
二条院の中君は世間にも認められぬような存在でしたが、産み月が近づくにつれてその存在は認知され、貴族の方々から祝いの品などが贈られるようになってきました。
そのように中君の周りが華やぐにつけても薫にはその存在が遠くに離れてゆくと思われて仕方がないのです。
季節は晩秋になろうとしております。
まるで世の喧騒を振り払うように宇治へ逃れようとするのは薫の心の置き所がそこにあるからでしょう。
御堂の建設の進み具合も気になる処ながら、静かな山里で大君の御霊と対話したいという心もあったのでしょう。
山荘は昔と変わらぬ風情で弁の尼も何も変わらずにそこにあるのが薫にとっては救われるように感じられました。
「弁、変わりないか?」
「はい、薫さま。ここは以前と同じように時が流れておりまするもので」
「そうだな。私はここにあると飾らぬ心でいられるものよ。まずは仏前にて読経するとしよう」
いつまでも八の宮さまと大君を忘れぬ一途な君が寂しげにあるのを弁の尼には辛く思われてなりません。
弁の尼は俗世間とは縁を切ったように暮らしているものの、なにくれと便りをもらうので京の状況、薫君の近況などを把握しているのでした。
女二の宮を降嫁されるという噂もすでにその耳に届いております。
薫君の気性をよく知る弁の尼としては、それはあまりにも酷いことと悲しくなりました。しかしてこの生真面目な君が帝の御意向を拒むとは思えず、優れているばかりに気に染まぬ婚姻を強いられる君を不憫に思うのです。
もしも大君が生きてここにいてくれたならば、と何度考えたことでしょう。
弁の尼ははたと八の宮の今一人の姫君の存在を思い出しました。
このこと薫君に伝えるべきか、そうするべきではないものか。
薫は半刻ほど読経すると弁の元へ戻って参りました。
「まずは中君の近況をお知らせせねばなるまいな」
「はい、お元気でお過ごしですか?」
「うむ。匂宮さまは夕霧兄さまの六の姫を娶ったのだが、中君は御子を授かった。来年の春には誕生ということらしい。これで宮の寵愛は増しておるし、世間的にも中君の存在は重く扱われるようになったのだ。中君は運の強い御方であるよ」
「まぁ、そうでございましたか。それはおめでたいことですわ。きっと八の宮さまと大君さまが御守りくださっていらっしゃるのですねぇ」
弁の尼は喜びに涙を浮かべました。
「弁がここを守ってねんごろにお二方の供養をしているからきっと御仏の恵みを賜ったのだ」
「わたくしごときの力ではありません。しかしこれから先も心を込めて勤めさせていただきます。そういえば薫さまの噂もこちらに届いておりますよ。今上の女二の宮さまを降嫁されると伺いました」
「そのことか、分に過ぎたることよな」
 
ああ、やはりこの御方は大君さまのことを忘れられないでいらっしゃる。
 
辛そうに顔を歪める薫君を気の毒に感じる弁の尼なのです。
「いっそここに引き籠り、半俗で八の宮さまと大君さまを偲んで暮らそうか。不遜と言われるかもしれぬが、本音は尊い皇女を賜るよりも身分賤しくとも大君によく似た女人と暮らしたいところだよ」
弁の尼はこの薫の言葉でやはりあの姫君のことを君に告げようと決めました。
「薫さま、八の宮さまには実はもう一人姫君がいらっしゃるのです」
「なんと、初耳だな」
「ええ、何しろ八の宮さまが北の方を亡くされてほんの少しばかりお邸におりました召人の君がお産みになった姫君ですから、世間には認知されておりません」
薫は敬愛する師の別の顔を見たようで動揺しましたが、それは宮さまの若かりし日の出来事ですし、何より今一人の姫の存在が気になって仕方がありません。
「して、その姫君は今どちらに?」
「はい、母君が陸奥の守と再婚しましたのでそちらで養育されたようでございます。先頃母親に連れられて中君さまを訪れられたようですわ。年の頃は二十歳ばかりでなんでも亡き大君さまによく似ていらっしゃるのだとか。中君さまのお手紙によるとやはり姉妹とて懐かしく感じられた、とありました」
薫は一瞬言葉を失いました。
あの大君と再び逢えるのかもしれぬ、という喜びがじわじわと湧き上がり、どうにもじっとしていられない心地なのです。
「何故中君さまは私にそれを知らせてくださらなかったのであろう」
「たしか召人の君の名は中将の君という人でしたが、八の宮さまが人目を忍んで仮初に愛された女人でございます。懐妊して女の子を産んでも我が子と認められず、中将の君は邸に居辛くなって去ったのですわ。中君さまは妹姫の存在も知らされておりませんでしたし、薫さまの御気性を考えれば同じ八の宮さまの姫君と心を砕かれるであろうと遠慮なさったのではないでしょうか」
「その中将の君が今頃になって中君を尋ねてきたのは如何したことであろうか」
「それは薫さま、その姫君は再婚相手にとっては継子ということですもの。実子でない限りはなかなか良縁などに骨を折ってはくださらぬのでしょう。母君は恥を忍んで中君さまにお縋りになったのではないでしょうか」
「なるほど。そうした経緯なれば私には相談しづらきことだなぁ」
薫の心はざわざわと波立ってその姫君に逢いたいという気持ちが高まります。
「八の宮さまの姫とあればやはり私がお世話する筋であろうと考えてしまうが、弁は如何思うかな?」
「田舎育ちの姫のようでどのような御方かもわかりませんので一概にはお答えできません。父宮の墓前に花を手向けたいとご希望ですので、近いうちにお越しになるかもしれません」
「そうか、では私のことなどもそれとなく伝えておいておくれ。やはりお力になりたいと思うのだよ」
「かしこまりました」
 
薫は御堂の建設や大君の一周忌のことなどを相談すべく山の阿闍梨の元へ向かいました。
山荘に戻る頃には陽がとっぷりと暮れて、山の冷気が肌を刺すようですが、今一人の姫君のことばかりが頭を過ぎるので気持ちが昂ぶって落ち着きません。
宇治が呼んでいるような気がしてこちらを訪れたのは宿縁が待ち受けていたからであろうか。
早くその姫に逢いたいものだ、と眠ることもできないのでした。
翌朝京に戻らねばならぬ薫はもうすぐ取り壊してしまうこの寝殿を隅々と見て回りました。
御仏は思いを残すなとお諭しになるが、なかなかどうして辛いものであるよ、と寂しさが込み上げてくるものです。
 
 宿りきと思ひ出でずば木の下の
     旅寝もいかに寂しからまし
(かつてここに宿ったという思い出がなければこの山荘にての旅寝は味気なかったものであろうに)
 
それを聞いた弁の尼が返しました。
 
 荒れ果つる朽木のもとを宿木と
     思い置きける程の悲しさ
(荒れて朽ち果ててしまったこの老体を宿木と思って下さるのはありがたいことですが、時の流れというものは酷いものですね)
 
弁の尼らしい古めかしい詠み具合が懐かしく、
「弁、また来るよ」
薫はそう言って宇治を去ったのでした。

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