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令和源氏物語 宇治の恋華 第九十四話

 第九十四話  迷想(四)
 
弁の御許は髪を下し、僧衣に身を包んでおりました。
「わたくしのような者が見苦しい姿を晒すのも憚られますのに、薫さまはいつでも優しく接してくださいますわね」
「何を言うのだ、弁。出家したからとて縁が切れるわけではあるまいに」
老女を気遣う姿は亡き愛しい柏木の君と瓜二つです。
弁の尼は親しい人達を多く亡くしてきた己の人生を振り返り、自分がどれほど長く生きさらばえてきたことか、と呪わしく思われてなりませんでしたが、今は先に逝った方々を弔いたいと穏やかな心持ちで日々勤行に励んでおります。
それが自分の役目であるということをすんなりと受け入れられるようになりました。
「弁がこちらにいてくれると思えばこそ顔を見に来ようとも思えるのだから、この邸をしっかりと守っておくれ。体には充分気を付けて。次の八の宮さまの法要には必ず参る」
薫君の言葉はありがたく、過ぎたものと恐縮する老婆は尼削ぎ姿がすっきりと可愛らしく思われるものです。
「わたくしなど俄か尼でございます。薫さまの足元にも及びませんが、御仏の法に従って生きてゆこうと思います。薫さまもどうかお元気で」
 
薫は邸を出るとしみじみとその佇まいを眺め、世の移り変わりを感じておりました。
八の宮さまと過ごした日々がまるで昔の出来事のように思われる。
あの佳き人との思い出も過去のものとは、なんと人の世は移ろいやすいものだ。
もしも心ばかりをこの地に置いてゆけるのならば、大君と共にあるものを。
 
この山荘と弁の尼との別れを惜しむのは中君も同じでした。
弁には不思議と人の心を解きほぐすようなところがあって、京行きに不安を感じる中君はやはり本音を吐露せずにはいられません。
「女房たちは京に移れることを喜んでいるようだけれど、わたくしは正直不安でならないわ」
「まぁ、中君さま。晴れて迎えられますこの日にそんな不吉なことをおっしゃってはいけませんわ」
「天涯孤独で後ろ盾もないわたくし。尊い宮さまの御身分を考えると正妻として迎えられることなぞありえないのだもの。いつしか宮さまに立派な北の方が迎えられた時にはきっとこの宇治へ戻ることになると思うのよ」
「宮さまの中君さまへの愛は本物でございます。そうでなければ京へ迎えられる決断はなさらなかったことでしょう」
弁の尼は一生懸命中君を慰めますが、この冷静な姫の考えはあながち的外れなわけではなく、世間を知る弁にしてみれば遠くない日にそのようなこともあるかもしれないという予感はあるのです。
「女人は立場も弱く辛いものでございます。ですが、夫を信じて鷹揚に構えてこそ拓ける未来もございますわ。どうか短慮はなさらないでください。もしもの時にはこの邸がありますもの。今はただ勇気をもって前に進んでゆくべきですわ」
中君はその心からの励ましをじっと目を閉じて聞きました。
「そうね。わたくしはもう決断したのだもの。行くしかないわね」
そうして顔を上げる中君の姿は凛として、まこと芯の強い女人に成長された、と感慨もひとしおの弁の尼なのです。
辛い境遇に遭う度に心をすり減らしてゆく女人は多けれど、中君はその都度に磨かれて輝くようなしなやかさを身に付けられました。
この御方ならば心配はない、と弁は中君の幸せを心から願うのでした。

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