見出し画像

令和源氏物語 宇治の恋華 第九十五話

 第九十五話  迷想(五)
 
中君の一行が二条院へ辿り着いたのは夜も更ける頃でした。
かつて考えていたよりも山路は険しく、車が何度か立ち往生する場面もありました。
なるほど宮さまはこれほどのご苦労をなさって宇治まで通って下さったのか、と思われるもその生半可ではない御心が嬉しくて、宇治を離れるごとに宮を慕う心が膨らんでゆく中君です。
匂宮は中君を待ちわびて車が着いたと聞くとすぐに自ら出迎えにやってきました。
「ああ、愛しい人。とうとう私の邸へやって来たね」
そうして中君を車から抱き下ろすのは、皇女を賜った臣下の如く恭しくも深い愛情の表れなのです。
「宮さま、お会いしとうございました」
扇で顔を隠しながら、そっと宮にだけ聞こえるように囁く恋妻がどれほど愛しく思われることか。
匂宮は桜色に頬を染める姫が眩しく、とうとうこの麗しい人を自分だけのものにした、と嬉しくて飛び上がらんばかり。
「私達は仲の良い妹背となろう。これからはずっと一緒だよ」
「はい」
姫を御座所に運んだ宮は庭の篝火をさらに焚かせ、二条院を明るく照らしました。
そうして中君は自分が足を踏み入れた邸の荘厳さに息を呑んだのです。
この邸はかつて源氏と紫の上が暮らした由緒あるもの。
宇治の山荘の何倍もある広い家屋に、これまで見たこともないほどに美しく細工された調度が置かれ、季節の草花が整えられた庭には玉石が光っておりました。
「今日からあなたがこの二条院の主人ですからね」
「はい」
まるで別世界に生まれ変わったようにぼうっと庭を眺める姫の横顔は美しく、けしてこの二条院の女主人として見劣りはしないのですが、中君は自分が出逢った大きな運命に怖じているのでした。
 
やはり宮さまはわたくしが考えているよりもずっと尊い雲居の御方なのだわ。
よくものこのこと京に出てきたこの身が恥ずかしいことよ。
 
顔も赤らむ思いで、漠然とした不安に襲われる中君なのです。
 
もしも薫さまがここにいらしてくれたらばどれほど頼りになり、救われるであろうか。
 
そんな詮方なきことを考えながら宮には知られぬように深い溜息をついたのでした。
 
中君をお迎えする為に差し向けた隋人達が褒美を賜って帰ってきたので、薫は姫が無事に京に着いたことを知りました。
「殿、中君さまは無事に二条院へお着きになりましたぞ」
「うむ、ご苦労であった」
隋人を束ねる臣下が酒気を帯びて上機嫌なのを主人らしく労う薫ですが、内心ではまったく別のことを考えております。
こうして晴れて宮が中君を迎えられたからにはお役御免というところではありますが、それが妙に寂しくてならないのです。
中君は宮の妻であり、こうなることは最初からわかっていたものの、今ひとつ現実を受け止められないでいる薫は、どうにもならない妄執に自嘲の笑みを浮かべました。
喜ぶ匂宮をよそに、中君と薫、それぞれに秘めたるものが多すぎて、まんじりともせずに夜を明かすのでした。



この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?