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令和源氏物語 宇治の恋華 第百五十八話

第百五十八話 浮舟(二十二)
 
浮舟は匂宮の膝に抱かれながら不思議なときめきを覚えずにはいられませんでした。
そこは小舟の上、宮は浮舟を連れ出して気兼ねなく過ごそうと差配させたのでした。
深更の篝火の下でちらちらと舞う雪が美しく幻想的なうえに、幽谷を彷徨う感覚はこれまでに経験のないことで、独りであるならば心細く感じるものを宮さまがしっかりと抱いていてくれると思うと安心して、自分を守ってくれているのだと頼もしく慕わしいのです。
人は常とは違う状況にあると判断力が失せて近くにある人をことさらに愛しく感じたりするものなのです。
いつしか雪は止み、有明の月が雲の切れ間から現われて辺りを明るく照らすと、浮かび上がる浮舟君の美しい姿に恍惚と、身を預けるその素直さも可愛く思召す宮なのでした。
小舟に揺られて一行が向かう先は川向こうにある何某の別邸なのでした。
匂宮の乳兄弟の時方の叔父である受領(因幡守)が夏の時期に過ごす為に造作した田舎風ながらも小洒落た山荘です。
途中に『橘の小島』と呼ばれる宇治川下流にある島が見えるとそこに趣ある風情で枝を張る橘が鎮座するのを匂宮は歌に詠み込みました。
 
 年経ともかはらん物か橘の
     小島がさきに契る心は
(千年の色も変わらぬであろう常緑樹<ときわぎ>にかけて深くあなたと契りを交わそう)
 
 橘の小島は色もかわらじを
     この浮舟ぞゆくへ知られぬ
(宮さまの御心も小島の橘も変わらぬとは信じますが、流されるままに漂うこの浮舟には行く先どうなるのかさえわかりません)
 
「あなたはいつでもそうして不安がっているのだね。私の愛を信じてくれていないということなのだろうか」
「そういうわけではありませんの。身の置き所なく過ごしてきたわたくしには今ひとときの幸せが眩しいのですわ。そしてその時が過ぎた時にはそれ以上の孤独が訪れるのですもの。いつもそうでした」
薫と違って孤独や疎外感を感じたことのない匂宮には浮舟の言葉を理解することができません。
「愛はずっと続いてゆくものなのだよ。たといひととき逢えなくとも心は通じているのだから」
そのように信じ切っているような匂宮の真摯な瞳を見つめながら、そうであればどれほどよいか、まことの愛がそうであってほしいと願う浮舟なのでした。
 
匂宮は浮舟を薫の邸からまんまと連れ出した優越感で、掠め取った姫君が殊更に可愛く思われてなりません。
二日の間物忌みすると二条院を後にしたもので、心置きなくのんびりと過ごせるというもの。その間に自分の存在を浮舟に焼き付けて心をも奪ってしまおうという算段なのですが、そうした考えもやはり拙い。
しかし浮舟にはこの程度で目が塞がれるほどに宮は恋愛上手で言葉巧みなのです。饒舌な殿方こそ想いが一時的で熱しやすく冷めやすいというのを世慣れぬ姫は知らず、大切そうに抱いて小舟から下ろされるのも愛ゆえと信じて疑わぬ。
そうした二人の時は幻想的で、甘く、ロマンチックなことでしょう。
浮舟はそんな宮との時間に溺れるのでした。
 
滞在する邸は手狭で網代屏風などによって作られた急場の御座所が如何にも旅先といった風情です。
身分の高い宮にはこうしたものも珍しく、自身は狩衣を脱ぎ捨てて、浮舟にも袿などを脱がせてくつろぎました。
ほんの薄い絹を五枚ほど襲ねたばかりの姿は艶めかしく、ほっそりとした体つきが可憐に思われる。貴婦人たち(中君や六条院の姫など)はたとい夫としてもけして殿方にこのような姿を晒すようなことはないので、宮は鷹揚で従順な浮舟をまるで愛玩動物のように愛でております。
そしてその傍らに控える侍従の君もけして見苦しい女ではないので、しどけない姿のままに気さくに声を掛けました。
「おや、お前は初めて見る顔だね。名をなんというのだい?」
「侍従と呼ばれております」
「ふむ、姫の侍従というわけだね。ではその職を全うして私たちの秘密を漏らしてくれるなよ」
「わたくしは姫さまの乳姉妹でございます。主人の為にならぬことはけして致しません」
「なんとも頼もしい側近であるよ」
そうして艶やかに笑む御姿の眩しさに侍従はすっかり宮に魅了されてしまいました。
「私も宮さまの御為ならばという気概で勤めておりますよ」
側に控える宮の乳兄弟・大夫の時方が侍従を優しく見つめました。
時方は男らしく、目端の利くなかなかの若者です。
侍従と時方、この二人もいつしか語らい身を寄せて朝を迎えるのでした。

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