見出し画像

寂寥

 今日も夜が来た。静かでよどみなく、しんとした空気が体をすり抜けていく。冷ややかな風にゆらゆらとそよぎながら、そのまま体を横たえてしまいたい。そんな夜。
 すぐそばの草叢から小さく虫の声がする。明るいうちに鳴いているのはあまり聞かない……否、日に当てられていささか賑やかになりすぎる日常のざわめきの中に、溶けて消えているだけかもしれないけれど。
 一人でいる。話す相手はいない。電話の相手くらいは、探せばいないではない。といえ、こんな時間に呼び出すのは迷惑だろう。寝静まるというにはまだ早くとも、無事に一日を終えて、ゆったりとした時間を共に過ごすなら……大切な家族、大切な友人、大切な恋人、といった相手の方が、先に思い浮かぶものだ。そこに横入りする気にもなれない。

 部屋の照明を消す。もうほとんど何も見えない。月が出ていても、月明かりは届かない。星の瞬きでは弱い。デジタル時計からちらつく無機質な光だけが不気味に眩しい。まだ眠っていないということ……それとも、永遠の夢の中か。その方が、まだ。
 境界があいまいな暗闇の内で目を閉じると、自己の輪郭がぼやけて、融けて、はっきりしない。はたして本当に生きているのかどうか、さえも。死んだように生きているのか、はたまた生きているつもりで、この世のものではなくなっているか。どちらも他者の目に触れないなら、どちらでもかまわない、かもしれない。
 打ち棄てられたこの身体を夜の虫が食みにくることなどあれば、その時はまた何か思いを抱いたりするだろうか。後悔、諦め、悲しみ、あるいは別の命の糧となれる喜びか。空虚な想像ばかりが、にわかに色づいては褪せてゆく。

 まどろみに身を任せる。呼吸とともに宵闇が体に吸い込まれては、ごく僅かな毒を帯びて吐き出されていく。明けない夜がなくとも、沈まない日もまたない。明日また黄昏を見送れば、自己のゆらぐ一時が訪れる。
 他者を羨んだところで惨めなだけと分かっている。だから自分だけを見つめて……持てないものの多さを知る。繰り返しだ。忘れるも、思い知らされるも、夜が明けるも、来るも。冷たく音のない空気が体をすり抜けるたび、また考えないではいられない。
 浅い眠りが、ほんのわずかな間だけでも暗闇から解き放ってくれるなら、その一瞬がもっとも純粋なしあわせなのだろう。
 夜明けまでは、まだ長い。

読んでいただきありがとうございました。よろしければサポートお願いいたします。よりよい作品づくりと情報発信にむけてがんばります。