真夜の邂逅

 夏休み真っただ中のとある日、オレたちは学校のプールに忍び込んだ。
 茹だるように暑い日の、熱を帯びたままの真夜中だった。
「ひゃ~! 超気持ちいい!!」
「お前も早く来いよ!」
 ざばん、ざばんと盛大にしぶきのあがる音が響く。連れ立って来た仲間二人は早々に水中へ身を投じたようで、もし水が張られてなかったら、という心配は杞憂に終わったらしい。着替えの遅れたオレは足早にプールサイドに上がると、二人に続くべく水面にダイブしようとして――
 ふと、踏み出す寸前の足を止めた。
「今日は満月か」
 空と同じ闇色の水面に、歪な形の月が浮いていた。オレは空とプールとを交互に見やる。なるほど頭上では見事な満月が皓々と輝き、その月がゆれる水面に写りこんでいるというわけだ。
「そこ飛び込んだら百点な!!」
 水際に立つオレに、連れのどちらかが深夜の謎テンションで意味の分からない煽りを入れる。
「まかせろ!!!」
 オレはオレで、この場所の解放感と、夏休み特有の『何かしらやらかしたい衝動』とが重なる。
 ……結局のところ、オレたち皆バカだったのだ。
 オレは大げさに勢いをつけて見せると、水面の月めがけて思い切りジャンプした。

 そのあと、何が起きただろう?
 どうも気を失っていたらしい。とりあえず目を開けて、ぼやけた視界が鮮明になるとともに辺りを見回した。暗い――のは夜だから当たり前か。しかし連れ二人の姿がないのはどうもおかしい。何の気なく空を見上げると、そこにあったはずの月さえないではないか。一旦視線を地面に落として、オレはようやく辺りの様子がおかしいのに気付いた。
「ここは……どこだ?」
 オレが目を覚ましたのは、さっきまでいたはずの学校のプールではなかった。
 見える限りの一面がむき出しの地面で、グレーがかった不思議な色の砂に覆われ、その上に大小様々な石や岩が点在していた。オレはどうやら、その中の手ごろな岩の上に寝かされているらしかった。
「――目、覚めた?」
 一瞬、心臓が撥ね上がった。誰も見当たらないと思っていたところに、突然声をかけられて。
 恐る恐る声の方を振り返ると、女性……少女と思しき人物が、ひとり静かに佇んでいた。
 やや小柄な体格に肩まで伸ばした黒髪、年の頃はオレと大して変わらないように見える。しかし奇妙なのは彼女の出で立ちで、言うなれば……そう、教科書の写真で目にした『弥生人の服装』、女性用の、白い貫頭衣によく似た服をまとっていた。靴はなく、この砂地の上に素足で立っている。
「あんた……きみは誰?」
 恐怖を隠すのと興味がわくのとで、尋ねずにはいられなかった。少女は少しばかり口ごもったあと、やはり静かな口調で答えた。
「――みづき」
 みづき。それが彼女の名前らしい。話の通じる相手だとわかり、オレはひとまず胸をなで下ろす。続いて、現時点で最も気になっていることを尋ねた。
「ここは一体、どこなんだ?」
「――ここは、月の裏側」
「月!? ……の、裏側?」
 オレは思わず声をあげた。そりゃそうだ、学校のプールにいたはずのオレがいつの間に宇宙旅行に放り出されたというのか。しかし言われてみれば、周りの砂や岩の色はときおり写真で見る月面のそれによく似ている。
 ということは、だ。まさか水面に映った月を通じてホンモノの月までワープしてきちまった、って話になるのだろうか。それにしたってオレはほとんど裸も同じ、彼女もおよそ宇宙空間には似つかわしくない格好なわけで、にわかには信じがたいのだが。
「そう――裏側。人が来たのは、ずいぶん久しぶり……」
 オレ自身はおそらく大きすぎる驚きにアホ面を長いこと晒していたと思うが、彼女――みづきも、多少なりともオレに興味を抱いたようだ。彼女は足音も立てずにオレの近くまでやってくると、適当な岩に腰を下ろした。オレが寝かされ、身を起こした後もそのまま座っている岩のすぐ隣だ。
 整った横顔と、重さを感じさせない黒髪が今度はオレのそばに佇む。
 肌は艶やかでありながら、どこか生気の足りていないようにも見える。オレよりわずかに幼いようにも見えるし、少しばかり大人びているようにも、どちらにも見える。美しいのは間違いないのだが、その美しさは男子高校生の情欲をかき立てるようなものでなく、よくできた美術品のような――どこか触れがたい神秘性と、一種の冷たさを併せ持ったもののように、思えた。「誰か他に、人はいないのか?」
「――いない。今は……もう」
「昔はいたんだ」
「――うん。もう少し、賑やかだった」
「そうなんだ」
 他にできることもなく、オレはみづきとぽつぽつ言葉を交わす。
「他の皆は……どこへ?」
「――ここよりも、もっと大きくて広いところ」
 広いところ。漠然としすぎていて、いまひとつ絞りきれない――そんなオレの表情を見て取ったか、みづきはふい、と、ある方向を指差した。
「――あそこに」
 みづきが指差したその先にあったもの。ひときわ大きく、青く輝く星。それはまぎれもなく。
「地球……」
 オレが普段いるはずの星が、今は目の前に浮かんでいた。立ち尽くす以外、できなかった。
「――ここは……月は、『引きつける力』が弱いから」
「引きつける力……?」
「――そう。月にいた人たちの魂はみんな、大きい方へ引かれていった。今はあの星……地球の住人として、生まれ変わりを繰り返していると……思う」「そういうやつらは、月でのことは、覚えてないのかな」
 みづきは、小さく首を横に振る。
 何だかうら寂しい話だ。土と岩の他に何もない場所で、ひとり。物静かな彼女の佇まいとも相まって、胸が痛い。
「みづきは、向こうに行かないのか?」
「――うん」
 どうして、と訊く前に、彼女の唇が動いた。
「――私は、最後までここにいたい。私が生まれ育ち、そして死んだ……この場所に」
「死……?」
 今度は、みづきは首を縦に振った。
「――ここは、月の裏側。この世ならざるところ……」
 この世ならざる――つまりは。
 会話は一度、そこで途切れた。
 みづきはずっと、青い星の方を見つめている。オレはもう一度彼女の名前を呼ぼうとして、思いとどまった。彼女の横顔が、とても美しかったから。
 背筋を伸ばしつつも、憂いを拭いきれないその表情。単純な黒かと思われた髪は、光の加減や角度によっていくつもの色合いを見せ、荘厳な銀にも、妖艶な蒼にも、激情を思わせる赤にも見えた。言葉少なな彼女の感情を、代弁しているかのようにさえ。
「――そろそろ」
「えっ?」
「――そろそろ、時間。あなたは、ここに居続けるべきではないから」
 ここ――月の上か、この世ならざるところか、その両方か。
 とにかく、オレはオレの場所に帰らなければいけないようだ。
「どうやったら帰れる?」
「一度眠って、起きれば戻っているはず」
 みづきは淡々と答えて――ぽつりと付け加えた。「今なら、まだ」
 どのくらいの時間、話していたのかわからない。長かったような、短かったような……不思議な時間。名残惜しさはどこまでもつのる。
「また会えるだろうか」
「――会わない方が、あなたのため」
 みづきは首を横に振り――しかし、仄かに微笑をたたえていた、気がした。

 オレが次に目覚めたのは、病院のベッドの上だった。
 やや衰弱していた以外に目立った異状はなかったそうで、退院したのちにあの夜のことをこっぴどく叱られたが、今はもうすっかり普通の日常に戻っている。
 あれから変わったことといえば、これまでより夜空をよく見上げるようになったくらいだ。
 時おり、丸い月など出ていれば、夜空を鏡に映してみたりもする。
 けれど結局、何も起こる気配はない。

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