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命のともしび

 雨風の強い日だった。ごうごうと空気がうねり、地面には滝のような雨が降り注いでいた。
「弱ったな」
 まばらに生える背の低い樹木に寄り添いながら、旅人は小さく息を吐いた。つい昨日までは、照り付ける日差しにこの身を焼かれていたというのに。
 どうにか枝葉の陰にすがってみても、横殴りに打ち付ける雨粒からはまるで逃れられない。いつまで降り続けるのか見当もつかないこの雨の中、足を止めたままではかえって身を亡ぼすことになりそうだ。旅人はまた歩き出した。幸い、夜の訪れまでにはまだ少し時間がある。
 どこかに雨風をしのげる場所が、できれば、翌日の朝まで安全に過ごせる場所があれば。旅人はそう願いながら歩いた。けれど旅人が歩いているのは草原の只中で、どちらを向いても先ほどの樹木より大きい木や岩はなさそうだった。仕方がないと分かっていても、一抹の不安がこみあげた。

「――おや」
 どれほど雨風に身をさらし、どれほど歩いただろう。諦めに至ろうとしていた旅人の眼前に、突如として建物があらわれた。古い木造で、人ひとりが生活するのにどうにか足るか、という大きさの家だ。いや家というよりは小屋といった方がしっくりくるだろうか。
 何にせよ求めていたものが見つかり、旅人は急ぎ玄関ポーチへと駆け込んだ。どうやら先客がいたようで、頭上からは小さく鳥のさえずりが聞こえる。
「ごめんください。誰かいませんか」
 旅人は雨風の音に負けまいと声を張り上げ、少々強めの力で扉をノックした。ややあって玄関先に出てきたのは、小柄で腰の曲がった老人だった。
「ここに人が訪ねてくるとはめずらしい。お前さんは――身なりからすると、旅の人かね。ずいぶんと雨にやられたようじゃが」
 日よけのハットも、風よけのマントも、食料を詰めた革袋まで雨でずぶ濡れだ。事情を説明し、一晩泊めてほしいと願い出ると、老人は快く旅人を迎え入れてくれた。外見から察せられた通りに狭い部屋がひとつあるだけの、簡素な屋内。しかし天気のことを考えれば、ここで雑魚寝できるだけでも充分ありがたい。
 老人はやはり一人でここにいるようで、調度の類は一人分の椅子と小さな四角いテーブル、照明用の洋灯くらいしかない。と、そのテーブルに置かれたあるものに、旅人の目が留まった。
「このろうそくは何ですか」
 テーブルの中央にはなぜか一本のろうそくが置かれ、小さな炎が灯っていた。空に厚い雨雲がかかっているせいで、洋灯に火を入れてなお室内は薄暗い。だがこれで明かりを補う、というには少々心もとない。
「ああ、それは『命のともしび』じゃよ。このろうそくの火が消えないように見守るのが、わしの唯一の役目なんじゃ」
「命のともしび?」
 目を細めて語る老人に、旅人は鸚鵡返しに聞いた。このろうそくに、いったいどんな意味があるというのだろう。旅人は少し興味がわいて、続けて聞いた。「消えるとどうなるのですか」
「このともしびが消えたまま一晩が過ぎると、命がひとつ、失われるんじゃ」そう老人は語った。「二晩ならふたつ、三晩ならみっつ。じゃから、できる限りこのともしびを絶やさぬよう、見守っておるんじゃよ」
 旅人は耳を疑った。にわかには信じられない話だ。
「誰かが死ぬということですか。それならいったいどこで、誰が」
「それは、わしにもわからん。ただ役目を仰せつかった時に、そう教えられただけじゃて」
「ではこれまで一度も、このろうそくは消えたことがないのですか」
「いいや」老人は首を横に振った。「何度か消えてしまったこともある。そのまま夜が過ぎてしまったことも」
 老人の話はいまひとつ要領を得ず、ただの絵空事のように思われ、旅人はそれ以上問うのをやめた。あまり信用していないのに気づかれて追い出されでもしてはたまらない。壁に背をあずけて、適当な相槌を打つだけにとどめた。しばらくして夜がやってくると、旅人は強い眠気に襲われた。悪天候の中を歩き回ったせいで、いつもより疲れたのだろう。
 命のともしびと呼ばれたろうそくの灯かりは、吹き込む隙間風にさらされて、頼りなくゆらめいていた。

 翌朝、旅人は窓から差し込む陽光で目を覚ました。どうやら天候は回復したようだ。昨日とは打って変わって部屋の中が明るい。これならろうそくの灯かりがなくても不自由はない。
 そう。昨日話題にのぼり、眠りに落ちる前には確かに灯っていたはずの『命のともしび』は、目を覚ました時にはすでに、炎が消えていた。特に風よけなどするでもなく置かれていただけのろうそくだ。吹き込んだ風なり雨なりで消えてしまっていたとしても、不思議はない。
 老人は床に転がるようにして寝ていたようで、旅人の目覚めに続くようにその身を起こした。火の消えたろうそくを見て、さぞ慌てるに違いない――旅人は好奇のまなざしで老人を眺めた。
「おお、ろうそくが消えておる。こりゃあいかん」
 しかし老人の様子は特に変わることもなく、懐から火打ち金と石、それに動物の毛を束ねたものを取り出すと、その場で器用に種火を起こして再び『命のともしび』を灯した。ずいぶん慣れた手つきだ。これまでに何度か消えたことがある、というのは、嘘ではないらしい。
「いっそ、消えたままにしておけば」
 考えてみれば、起きている間も寝ている間も常にろうそくを気にしながら、などという生活を送れば、普通なら頭がおかしくなってしまうのではないだろうか。どこかの誰かの命がかかっているから――とはいえ。
「わしは、これしか出来んからのう」
 他の仕事がどれも上手くできずに、最後に与えられたのが『ともしびを見守る役目』なのだと、老人は言った。それ以来、ずっとともしびとともに暮らしている、とも。
「この灯がなければ、わしは生きている意味を失うんじゃよ」
 そんなものか。いや、そんなものか。あてもない旅をいつまでも続けている自分と、ともしびを見守るこの老人とは、本当は似ているのかもしれない。
「ありがとう」旅人は老人に短く礼を言うと、また旅の続きに出ることにした。扉を開けて一歩を踏み出す。と、何やら靴底に柔らかいものがあたった。落ちているものを踏んだらしい。昨日ここに駆け込んだときには、何もなかったと思ったが。
 足をどけると、そこには小鳥の亡骸があった。そういえば昨日の先客は、あれからどこかに行っただろうか?
「まさかな」
 旅人は小鳥をそっと埋葬し、手頃な枝と草花で墓を作ると、また何処かへと歩き去っていった。

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