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リトルモスキートン‘24

――1:30 Am

 し暑さも増してきた初夏の日の夜中、寝ている最中にふと目を覚ました。それ自体はまあ、毎日よくあることだ。一寸ちょっとひと息ついてからまた眠ればいい――が、この時は様子が違った。右手の人差し指の先と、左の肘の近くが妙に痒い。痒みに気付いた時点では見た目に異常はなかった。しかし用を足して寝室に帰ってきた時に再び手と腕に目を走らせると、痒みの発生箇所つまり痒心地かゆしんちとその周囲が円形に腫れ、皮膚が盛り上がっているではないか。これは……拙い。
 過ぎ去った時とともに存在を忘れ去っていた『ヤツ』が、季節の巡りを経てまたもや姿を現したのだ。自らの繁殖の為に他の動物の生き血を啜り、ことヒトに対しては不快感のみならず病原体をも撒き散らす、この世の生物の中で最も多くの人間を殺める忌むべきマーダラー、人類全体の敵――そう、『蚊』である。

 ッ油断していた。日中の気温が二十五度を超えて夏日と呼ばれるようになれば季節はもはや夏、ヤツらの足音、いや羽音が聞こえてくる季節である。蚊という漢字を見たまえ、形声文字で読みが羽音に似ているからという理由だけで虫偏むしへんにされた『文』のなんと不憫なことか。部屋をただ飛んでいるだけでもあの羽音が耳につくのに、穏やかな心地で眠れるわけがない。ヤツの前に無防備な姿を晒すなど無料のドリンクバーを提供するのと同じ、むしろ痒みと寝不足を伴うぶんマイナスではないか。
 夜中であっても気付いた時がその時、この怨敵ばかりは速やかに討たねばならぬ。照明を点け、周囲を念入りに窺うがすぐには見つからない。ひとまずは駆除剤を準備して電源を入れておく。こいつは小さなボトル型で、底に近い位置から口の部分を通ってさらに上まで伸びた棒状の芯と、液状の薬剤とが入っていて、このボトルを専用の器具に取り付けて芯の上部を熱することで芯に染み込んだ薬剤が蒸散・揮発して対象を駆除するというものだ。製品名を挙げて後でおこられてもいけないので、ここでは仮に明日あすまとと呼ぶとしよう。
 しかしながら我が家にあるこの『明日の的』は幾分、古いものだ。長持ちするのはありがたいものの、家には日中ほとんど誰もいないし、そもそも駆除対象がいなければ使わないしで結局余った薬剤は結構な年月を経てしまった。それでも使用期限が明記されていないのでとりあえず焚いておく。今や効果が残っているのかどうかも怪しいといえ、全方位に霧散してダメージを与えられるなら無いよりは余程マシといえよう。大抵の場合、相手は体長が一センチほどしかないから討伐するこちらも必死である。何せ今夜の安眠は、この一瞬にかかっているのだから。

 剤を仕掛けてから、部屋をもう一度見まわす。眠い目を強靭な意志力でもって皿のように見開き、おもむろに、そしてつぶさに壁や調度を観察し、ようやくその姿を捉えた。ヤツはウェーブがかったカーテンの谷にあたる部分に止まり、文字通り羽を休めている。今だ。今しかない。この機会を逃せば次は何秒後か何分後か、何時間後か分からない。ここでケリを付けなければならない――そのままゆっくりと、気配を察知されぬよう体勢を整え、狙いを定めたなら決着は一瞬、素早く腕を伸ばし両の手を打ちつけるように獲物を挟み込むとカーテンの布地がぼふ、と低い音を立てる。手応えは……ない
 予想はしていたが、やはり相手の方が一枚上手だった。触れれば揺れる不安定なカーテンでは逃げ道を完全に塞ぐことは難しく、勢い余って窓ガラスをぶち叩くわけにもいかない。わずかに生じた躊躇いが攻撃の勢いを削ぎ、揺れた布と指の隙間から逃げたのだろう。
 一旦はその場を離れた標的がまた戻ってこないかと、しばらくは臨戦態勢を維持したまま様子を見ていた。だがそうすぐには発見できない。もしかしてドアの隙間から部屋の外へ出たか、あるいは薬剤が多少なり効果を発揮してくれたか……とにかく、このまま起き続けていては体に障る。ひとまずの脅威は取り除かれたことにし、こちらも寝直すことにした。

――3:00 Am

 られた。ヤツはやはりまだこの部屋に潜み、人間の血を欲していたのだ。気配に気づいて再び目を覚ました時にはすでに遅く、今度は右手首の辺りを一刺しやられていた。『明日の的』の使用時間が短すぎたのか、それとも。とにかく先刻の戦いを繰り返すようにして明かりを灯しヤツを探す。しかし今回は労せず見つけ出すことができた。理由は簡単だ。なぜならこちらが同じ行動を繰り返したように、ヤツもまた同じ場所で休んでいたのだから。ヤツめ、ヒトの部屋のカーテンを安全地帯とでもほざくつもりか。
 草木も眠る丑三つ時、だのにこの蟲は何故に動き回るというのか。同様に闇夜に人の生き血を求めて彷徨う吸血鬼の眷属だとでもいうのかこの野郎、いや蚊が血を吸うのは産卵のためであるから目の前のコイツは即ちメスなのだが眠りを脅かす敵には違いないのだから性別などはどうでもよろしい。人の眠りを再三妨害しておきながら悠々と休みおって。この戦い、今度こそ幕引きとせねばなるまい。勿論こちらの勝利によって。とはいえ、相手が同じ場所に陣取っている以上、先ほどと似たような攻撃では避けられる可能性が高い。
 実はスプレータイプの殺虫剤もあるにはある、が、そちらはひと部屋にワンプッシュで効果が持続するタイプのものだ。不幸にもカーテンはベッドのすぐ側で、しかもヤツの止まっている場所は頭を置く位置に近い。部屋中に効果を及ぼす分量をピンポイントでスプレーしてしまえば、カーテンと周囲の寝具に染み込んだ薬剤によって自らダメージを負ってしまう。きちんと休んで疲れを取りたいが故に戦っているのに、それでは本末転倒というもの。万事休すか――いや諦めるにはまだ早い。人間は知恵によって文明を築き、様々な道具を生み出した。その結果、ごくごく一部でありながらも大自然に匹敵する現象を起こせるようにもなった。機械の力を使って。
 覚悟するがいい、永遠にも似た刹那のうちに恐れ慄くがいい。吸血するばかりの貴様が逆に吸われることになるのだ。走れいなずま、逆巻くは風、今こそ裁きのとき!!
 コンセントにプラグを差し込み、細いノズルを取り付けたら、近づいてスイッチを入れる。すぐさまうなりを上げたモーターに、ヤツも慌てて飛び去ろうとするも、もう遅い。周りの空気もろとも蚊を吸引してノズルの奥へと閉じ込める。取り逃がしていないのを確認すると、掃除機のスイッチを切った。ついに完全勝利、眠りの平和が保たれた……。

 ……が、その頃には夜中というよりすでに明け方、そこからゆっくり眠れたかどうかは、また別のお話💤


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