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3年目のラ・ラ・ランド

かれこれ3年、わたしの中で不動の1位を保ち続けている映画がある。

2017年の冬、はじめて映画館で鑑賞したその日から、すっかり虜になってしまった『ラ・ラ・ランド』。
あまりのインパクトに、計3回映画館へ足を運び、その後ブルーレイディスクを購入してくり返し鑑賞。もう10回以上は観ただろうか。

アカデミー賞を6部門で受賞し、日本でも空前のブームを巻き起こした作品であるゆえ、説明するまでもないかもしれないが、以下に簡単なあらすじを掲載する。

舞台はアメリカ・ロサンゼルス。
ジャズをこよなく愛し、いつか自分の店を持つことを夢みるセブと、数々のオーディションを受けながら女優を目指すミアは、出会って恋に堕ちた。
互いの夢を応援しながら日々を過ごしていたが、安定した収入を求めてセブが加入したバンドが大ヒットしたことをきっかけに、二人の関係は少しずつ様相を変えていく。

世界観こそきらびやかだが、物語の中にはフィクションらしいダイナミクスがあるわけではないし、ため息の出るようなハッピーエンドが待っているわけでもない。
それゆえ、上映当時から、周囲の友人たちの評価には賛否があったように感じていた。

しかし、わたしにはそこが良かった。
幸せの絶頂にもすれ違いの日々の中にもにじむ、いやになるほど剥き出しのリアリティがたまらなく好きだった。

先日、友人と好きな映画の話をする中で、当時の熱量が一気によみがえり、止まらなくなった。
会話や趣味の端々から感性の類似を感じる彼女には、ぜひ観てほしい。そう伝えると、じゃあ今から一緒に観ようかということになった。

ちなみに、最後に観たのは、奇しくもちょうどその日の1年前。
なぜ日付まで覚えているのかというと、それは『ラ・ラ・ランド』の舞台であるロサンゼルスへ向かう飛行機の中でのことだったからだ。
しんと静まり返った機内で、嗚咽を押し殺しながら滝のような涙を流すわたしに、隣の紳士はぎょっとした顔をしていた。

あれから1年が過ぎた。
今の自分は、いろいろな意味で当時思い描いていた姿とは程遠い。さらに、自分を取り巻く環境も人間関係も、一年前とは大きく異なっている。

なんのためらいもなく再生ボタンを押す友人を横目に、正直、ちょっとどきどきしていた。
一年前と違うわたしは、果たしてどんな感じ方をするのだろう。期待と緊張がないまぜになった感情で、彼女と並んで画面に向かう。

死ぬほど、泣いた。

誰かが近くにいると集中できないかな、などと思っていた自分は何処。自分の中で何かが変わっているかな、などという淡い期待も遥か彼方。

1年前と寸分たがわぬ、なんならよりいっそう膨れ上がったインパクトたるや、ハンカチが全体的に湿り気を帯びるほどだった。

だって、好きな要素が多すぎるのだ。良すぎる。
物語の冒頭からラストシーンまで、眼球が濡れていない時間がほとんどなかった。

画面に溢れる色彩のあまりの鮮やかさ、その美しさに打たれて涙し、恋愛の絶頂期特有の高揚感としびれるほどの幸福感におぼれて泣き、しだいにすれ違ってゆくその過程のあまりの生々しさとどうしようもなさに嗚咽をこらえ、最後は涙腺崩壊だった。

印象深い場面は山とあるのだが、中でも特に、わたしを捉えて離さない「好き」の要素は、ラストシーンに凝縮されているように思う。

二人の別れから5年後。一躍有名な大女優となったミアとその夫が、セブの営むジャズバーに偶然やってくる。
客席のミアをステージの上から見つけたセブは、呆然とした表情を一瞬浮かべた後、そっけなく「ようこそ」とだけ言ってピアノの前に腰かけ、二人の出会いのきっかけとなった曲を弾き始める。

その曲に合わせて展開されるのは、めくるめく「もし」の世界だ。
ミアとセブが結ばれていた場合の5年間。

身を切られるように切ないのに、その世界は徹底的に明るく、どこまでも美しい。
だから余計に苦しくなるのだ。その一貫した「切な明るさ」は、わたしが愛してやまないaikoの楽曲にも、どこか通ずるものがある気がする。

妄想というにはあまりにも生々しい数多の場面が、容赦なく繰り広げられてゆく。

もし、出会ったあの日に恋に堕ちていたならば。
もし、あのときの申し出を断っていれば。
もし、客席が満員だったなら。
もし、一緒にパリに行っていたならば。
もし、もし、もし。

いつどこでこちらの世界を選んでいてもおかしくなかった。どこか一つでも選んだ道が違ったならば、二人で生きる未来は現実になっていたのかもしれない。

どちらが良いとか悪いとかではなくて、些細な選択や小さな決断が積み重なって今があるのだと、ただその事実だけが、苦しくなるほどの鮮やかさで次々と映し出されていく。その様が、本当にたまらないのだった。

多分、だれの人生にもあることなのだろう。
後悔でもなんでもなく、ただふと「あのときこっちを選んでいたら、今頃どうなっていただろう」と思う瞬間が。

今更どうすることもできないし、どうしたいとも思わない。ただ、その「もし」を想像すると、一抹の切なさが胸を切る。

この作品におけるテーマの一つには、「愛」があると思っている。
ロマンティックな「恋愛」でも、激しい「熱愛」でも、かといって「親愛」でもない。一番しっくりと馴染むのは「情愛」だろうか。

その見解は、物語の終盤で、恋人同士ではなくなったミアとセブが公園で話すシーンに起因する。
お互いの今後を考えて、二人の関係を「どうすることもできないと思う」というセブに対して、ミアはこう言う。

「ずっと愛してるわ」

切実さを微塵も感じさせない、落ち着いた表情と口ぶり。
それゆえいっそう、心の奥底にある真実の気持ちなのだと思えてならない。

夢のように楽しい日々を超え、やがてすれ違い、別れを経てもなお、ごく自然に「愛してる」という言葉が出るのがすごい。
恋と愛の徹底的な違いは、まさにここにあるのだと思う。相手を心からいつくしみ、関係が終わりを迎えたその後も、ずっと変わらぬ愛情を静かに燃やしつづけるのだろう、という確信に近い想いを抱くことだ。

そんなミアの言葉に対して、セブは「俺も愛してるよ」と当たり前のように言う。
一点の曇りもない深い情愛と、それだけではままならぬやるせなさに、何度でも嘆息してしまう。

この物語のどこにそれほど打たれるのか。
こんなにも心が揺さぶられるのはなぜなのか。

はじめて鑑賞したその日からずっと考え続けていたけれど、うまく言葉にすることができなくて、もどかしい思いをし続けていた。

出会いから3年。このたび1年ぶりに観てようやく、少しだけ明文化できたような気がしている。

作品でも人でもそうだけれど、好きであればあるほど、その魅力を端的に表現するのは難しいことのように思える。
好きなところを列挙すれば止まらないのに、「で、結局なに?」と問われれば、そこではたと言葉が出てこなくなってしまうのだ。

そして、その難しさは文章にまとめることにも通ずる。
ばらばらと思いつくままに書き綴り、結局焦点がうまく定まらぬまま、途中で挫折したり、書き出して二文目くらいで投げだしたりしたことも数知れず。

この『ラ・ラ・ランド』に関するエッセイも、例に漏れずそうだった。
少し距離を置いていたこの作品と、再び向き合うきっかけに出会えたことを、心の底から有り難く思う。

あきれるほどにぐらつき、悩み、苦しさを憶えることもままある日々だけれど、見失いかけていた大切な感情をひさしぶりに目の当たりにし、しゃんと背筋を伸ばしていたいと改めて感じたのだった。

過去の自分に恥じぬよう、そして未来の自分にも恥じぬよう。
環境や自分自身の変化を経てもなお、まっすぐに人を愛する強さだけは、変わらずに持ち続けていたいと思うのだ。

#エッセイ #映画 #ララランド #コンテンツ会議

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