今日という日に
「毎日をちょっとハッピーに過ごすコツ」的なタイトルの本や、見知らぬ誰かが自分の恋愛観をちりばめた話は好きですか?
自己啓発というよりか、もっとカジュアルで装丁もお洒落な、そういう本。
もしくはウェブ上のコンテンツ。最近たくさん見かけますよね。
わたしは、本当にとても好きでない。
そういう話を書く人は大方、かわいいか美人で(なぜか女性が圧倒的に多い気がする)、人に可愛がられる術を知り尽くしていて、でもそれを巧妙に隠す技術をあわせ持ち、そして大抵、すてきなパートナーや愛らしい子どもがいるものだ。
さらなるポイントは、あくまでも「ちょっと」すてきな生活を営んでいることだ。現実離れしたセレブではなくて。
それってただの嫉妬では……と呆れかけているあなた。ほぼ正解である。
そういうことを目的にしているからある意味正しい感覚なのかもしれないけれど、その「届きそうで届かない感」が、わたしはほんとうに嫌なのだ。
届きそうだからこそ自分とのあからさまな違いが際立つのだし、そんな自分に対する嫌気は何倍にもふくれ上がる。
「わたしにもできそうだからやってみよう!」なんてすらっと言える、前向きな人間でありたかったと心底思う。
恋愛観に関してもそう。曲がりなりにも自己流で20年強やってきているのに、いきなりそれを嘲笑われるようなことを言われると、超ヘコむ。とことんヘコむし、なんならちょっと著者を恨みすらしてしまう。
どうせこんなにモテなかったし惑わせる相手もいませんでしたよーだ。とか思ってしまう、やな奴なんである。
さて、すっかり前置きが長くなってしまったが、そんなわたしが先日はじめて「そういう本」を買ってみた。
『いつか別れる。でもそれは今日ではない』/ F
購入に踏み切ったのは、タイトルの持つ引力のせいに他ならない。
数ヶ月前、書店ではじめて目にした時から、頭の片隅にこびりついて離れなかった。考えるともなく無意識に何度も思い返し、時に言い聞かせてきた言葉。
「いつか別れる。でもそれは今日ではない」
一生添い遂げた末なのか、どちらかの突然の死なのか、もしくは心変わりか。
理由はなんにせよ、別れはいつか必ず訪れる。すべての恋人同士に、いつかは必ず訪れる。
考えただけで気が狂いそうな話だ。当面別れる予定もなく、大切にしたいと思える恋人がいる人間にとって、別れはできるだけ避けて通りたいものである。
恋人との別れは、もしかしたら死以上に、わたしにとって最大の恐怖だった。
恋愛に「絶対」は絶対にないのだと教えてくれたのは皮肉にもかつて死ぬほど好きだった人で、それからわたしは信じきることができなくなった。
でも、それで良かったのだと思う。だってまぎれもない事実なのだから。
「一生」なんて、それこそもう一生、口にしてはいけないと思っていた。
あまりにも不確かで不自由なもの。嫉妬と同じで、その言葉が縛るのは相手ではなく自分自身だ。
「一生って言ったのに」なんてもう絶対に思いたくないから、だからもう言うのはやめようと決めた。それよりも今日を、目の前の明日を確実に過ごすことに尽力しようと決めたのだ。
それなのに、やっぱりどうしても欲が出てしまうのはなぜだろう。
恋人とひさしぶりに外でお酒をのんだ日、その場の高揚感に惑わされ、思わず心がぐらついた。
こんなこと言うべきじゃないってわかってるけど、でも、ずっと好きでいてほしい。
勝手に口を突いて出た言葉に、誰より驚いたのは自分だった。
一年近く、それだけは漏らすまいと我慢し続けてきたのに、ああついに言ってしまった。
こわくてまっすぐ目を見られないわたしに返ってきたのは、しかし
「そのつもりやで」
という一言だった。
そのあと、自分がなんと返したのかは覚えていない。
だってとてもびっくりしたのだ。わたしたちは将来の話はしない、というか無責任にできない関係で、これまでもこれからもそうやってなんとなく、曖昧にごまかしながらやっていくんだろうと思っていたから。
そしてそれが、今できるもっとも誠実なことなのだと思っていた。
数ヶ月後には数千キロも離れた場所にいて、そのうえいつ帰ってくるかわからないにも関わらず「ずっと一緒にいよう」なんて言うのは、あまりにも無責任なことだ。だから、曖昧でやさしい今の関係が一番いいのだと。
それなのに、その言葉が迷いなく発されたことにとても驚いたのだ。
しかしその数時間後、帰り道でわたしはめちゃくちゃに泣いていた。
理由はよく覚えていない。というか、そのときはよくわかっていなかった。
いろいろねじ曲げてややこしくしていたけれど、たぶん結局はシンプルな問題で、つまり恋人がいなくなるのがものすごく不安で死ぬほど寂しい、というただそれだけのことだった。
エンキョリ、という響きの薄っぺらさに対して、その言葉の持つ意味はあまりにも重い。
物理的な距離が、それもとてつもない距離が空いてしまうのだという恐怖は計り知れないものだったのだ。
積み重ねてきた嘘が、全部こわれた瞬間だった。
なるようになるよーとほざいたことが、
とにかく今を楽しむの!と笑ったことが、
寂しくて死んじゃうとおどけて話したことが。
あのときもあのときもあのときも、本当はずっとこうやって泣きわめきたかったと、体じゅうが怒鳴っているみたいだった。
涙と鼻水で顔も首筋もびしょ濡れにして、前なんか見えてないくせにずんずん歩き、コンビニの前を過ぎて、マンションに着いてもわたしはなお泣いていた。
途方に暮れた顔で横に立つ恋人に、多分はじめて、帰ってと言った。
自分がどうしたいのかわからなかった。そばにいたいのかも、話したいのかも触れたいのかどうかも。こんなことは初めてだった。
恋人は、帰らない。
なんで怒っているのか、なんで泣いているのか話してほしいと言う。
自分でもよくわからないしどうせ伝わらない、と投げやりにいうと、伝わらなくてもいいから話して、と言う。いいから、と何度もくり返す。
そうやってぽつぽつとやりとりを重ねるうち、恋人が唐突に言った。
「好き?」
わたしに対して言っているのか、それとも問われているのかわからなくて聞き返す。
すると「訊いてる」と言う。
自分は好きだ。あなたはどうなんだと、まっすぐに目を見てそう話す。
「そんなん…」
はっとした。
先の見えない不安。逢えなくなることへの不安、心変わりされるかもしれないという恐怖。もう何度目かわからない、そんな不可抗力の不安たちに振り回され、自分の感情をまた見失っていたことにやっと気づく。
好きに決まっている、と言い終わらないうちに、「今はそれでいい」という強い声がした。
自分が相手を好きで、相手も自分を好きで。今はそれで、それだけでいいのだと何度もくり返す恋人の声に、やっと止まりかけていた涙がまたぼろぼろと流れた。
嬉しくて、でも張り裂けそうなくらいせつなくて、どうにかなってしまうんじゃないかと思った。
恋人の腕の中にいるときはいつもそうだ。隙間のない甘やかな矛盾に閉ざされて、わたしは一歩も動けなくなってしまう。
いつか別れる。でもそれは今日ではない。
ぼやけた頭の片隅で、噛みしめるようにそう思った。
来月二人で札幌にラーメンを食べに行く旅行の計画を立てていたといても、明日どちらかがどうしようもない交通事故で即死するかもしれない。でも、それはきっと今日ではないだろう。
ちょっと風が強く吹いた、とか、左耳がいきなりキーンとしたとか、そんな意味不明な理由で、どちらかの愛が冷めたり冷められたりするかもしれない。でも、たぶんそれは、今日ではない。
ずっと、なんてない。だから今が楽しく、切なく、永遠なのだ。
わたしに必要だったのは、ずっと一緒にいたいという執着ではなく、いつかは別れる、という覚悟だったのだ。
おもえば、わかりきったことだった。
でも人間はすぐに忘れてしまうから、こうやって何度でも取り出して、自分に思い出させてやらなくちゃいけない。
いくら綺麗な未来を思い描いたって、今が楽しくなきゃなんの意味もないのだということを、なんども何度でも思い出す必要があるのだ。
いちばん不細工な寝起きの顔を、いちばん好きだと言ってくれる恋人と、わたしは今を生きていたい。
明日のことはわからない。来月のディズニーランドも年越しも、いつか一緒に観ようと約束した映画も景色もどうなるかわからないけれど、それはまた、別の話なのだ。
いつか別れる。でもそれは、今日ではない。
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