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やばい、エモい。形容詞は評価的側面があるから、仲間内でしか使えない

私は小学生の作文指導をしてもう30年以上。その中で気をつけているのは、形容詞や形容動詞のワンパターン化防止だ。

遠足に行きました。楽しかったです。
映画を見ました。すごかったです。

楽しかった……形容詞「楽しい」の連用形「楽しかっ」に、過去の助動詞「た」が付いた形。

大人でも、意見文を書かせるとこのようなことを書いてくる人もいる。そして胸を張って言う、「映画を見た。すごかった。これ以上の事実はない」と。

例えば、その場で同じ映画を見ている、しかも、普段意思疎通のある友達に対しては「すごくない?」「やばくない?」「マジ無理」全部、通じるでしょう。

でも、これらの表現は、その場にいない人には通じないし、普段、意思疎通をしていない、つまり言葉の定義が異なる人たちには通用しない

「やばい」「エモい」これらの言葉の新しさにも原因があるが、実は、形容詞や形容動詞全般、客観的な表現にしにくいものだ。それは形容詞や形容動詞が、評価の側面を持つからである。

あの子、可愛いね。
この服、高いね。

こういうガチ評価な面も持つし、
この山は低いね。
このトレーニングは簡単だね。

経験による差も現れる。

例えば逆上がりができる友達を見て、逆上がりができない人は「すごい」と思うが「そんなの簡単だ」というレベルの人が発する「すごい」という言葉から受ける印象は違う。またその子の指導者から見た、その子の頑張りに対して「すごい」という言葉の意味もまた変わってくる。その子の母親から見た「すごい」も違うだろうし、その子の祖父母から見た「すごい」も違う。また年下の兄弟から見た「すごい」も違うし、ライバルの友人から見た「すごい」も違う。
同じ事象を見ていても「すごい」という言葉には、評価的側面があるので、状況や理由を説明しないと、自分の「すごい」を相手に伝えることは難しい。ましてや、逆上がりというもの、むしろ鉄棒が存在しない国の人に、この「すごい」が通じない。この人を現場につれてきたら「すごい」という言葉を発するかもしれないが、その「すごい」も、私たちの「すごい」とは若干異なる感情かもしれない。感情そのものを、まるっと、まるでテレパシーのように渡せたらいいのだが、私たちは「言葉」を介してしか、相手、特に第三者の感情を本当の意味では理解できない。

また、仮にテレパシーを使って感情を渡せても、その感情の表現は人によって変わる。「楽しかった」の言葉から想像される興奮は、人によって違うし、またたとえ計測可能な興奮であっても、同じことを体験させた時、それは「緊張」や「恐怖」という別のラベルが貼られることもあるそうだ。つまり、「楽しい」を体感している人の心拍数、呼吸数、発汗などを計測し、他人に同じことを起こさせたとしても、その感情に何というラベルを貼るのかは、人によって違う。
実際、この現象を逆手にとって、緊張でネガティブになり、ドキドキしている場合に「さあ、楽しくなってきたぞ」と言語にして発することで、同じ呼吸数、同じ心拍数、同じ発汗具合であっても、体に起きている現象に対して「ワクワク」というラベルを貼ることになり「これはポジティブな状態にある」と脳を騙せるのだそうだ。

このように、その場にいない人、価値観が違うであろう人(というかほとんどの人が価値観は違う)には、形容詞や形容動詞を使った表現以外の説明が必要だ。

形容詞を禁止にすると話せなくなる

そういう意味で、私の小学生コースでは「楽しかった」と「すごい」をNGワード(使ってはいけない言葉)にしている。同じ目的で「言った」も禁止している。「言った」禁止令についてはまた今度。
NGと言われた子どもたちは、悩みまくっている。私の目的は、子どもたちを悩ませることである(笑)
この「楽しかった」「すごかった」をどのように表現するのか、知恵を絞ることで、頭も文章も良くなる。まずは、その感情が起きた時の自分を観察することとアドバイスする。
その時、体はどうなっている? 頭がぼーっとした、手が震えた、心臓がドキドキした、足がガクガクした、いろいろな表現が出てくる。擬態語や擬音語等のオノマトペは非常に便利だ。また比喩も役に立つ。また状況を詳しく書くのも効果的だ。臨場感が増す。

ディズニーランドに行きました。ここに一生住みたいぐらい、大好きになった。行列に並んだ。このアトラクションって、どんなふうなのかな?と、同じ話を何回もしたが、全然退屈しなかったので、並んでいる時間がすごく短く感じた。アトラクションに乗っている時間は、もっとあっという間だったけど、何回も思い出せるから、あっという間って言わないのかもしれない。

「楽しかった」の改善例

さて。この春から高校生の小論文コースを始めた。小論文は作文と違い、自分の意見を論理で説明し、読み手を納得させなくてはいけない。感想を書く場合にしても、価値観を表現して、それを誰が読んでも解釈が変わらない客観的な文章表現にする必要がある。大げさな修辞技法をやめることはもちろん、感情が入る形容詞や形容動詞を、なるべく他の表現に言い換えて、表現方法による敵を作らないことが大事だと感じている。

学術論文には、主観的な形容詞は登場しない。学問の世界では客観性が重視されるから。そんな話も聞いたことがある。もちろん、エモいもヤバいも登場しない。見知らぬ相手にこれらの形容詞や形容動詞をどう説得させるか、是非、挑戦してみてほしい。

やだ、この国語のセンセの言ってること、マジきもい。無理。

うん、それは少し分かる(笑)

ちなみに、エモいは理解しているつもり。Spotifyのお気に入りリストはこれ。


参考文献
「形容詞の評価的意味と形容詞分類」阪大日本語研究 15 13-40, 2003-03 大阪大学大学院文学研究科日本語学講座

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/12273/15-02.pdf

『形容詞を使わない大人の文章表現力』石黒圭


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