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いじめの構造をつくっているのは「サイレントマジョリティー」なのかもしれない

大勢でつるむのが苦手だ。

自分の心を開ける相手と、忖度なく本音で話し合いたいという気持ちが強いので、どうしても大勢になるとそれができない。

大勢で話すと、個人的な話が減る代わりにご近所さんのうわさ話とか、どうでもいい学校の話題とか、誰得?な「最大公約数の話題」に終始しがちでつまらなくなってしまう。

大勢でつるんでる人はそんなことを思っていないのだろうか?とふと考えてしまう。

そして、大勢で話しているときに感じる、特有の違和感ってのもある。

違うなと思ったことに対して異論を唱えると、なんかみんなが「シーン」てするんだよね。誰もついてこないっていうか。その話を少人数でしていたときは「わたしもそう思う!」とか同意してた人まで黙りこくっちゃうんだよな。

なんちゅーか、大衆心理っていうんですかね?
声をあげる、とかが苦手なのは別に構わないんだけど「スン」として我関せずを貫く人の多いこと。

普段の世間話は当たり障りのないことを話しておけばよいけれど、いざ何かを決めなくてはならない話し合いでも「スン」を決め込まれると、何も決まらないし、話が進まない。

「長いものに巻かれているのが一番安全」という思考なのかもしれないけれど、それもほどほどにお願いしますってウンザリすることが多い。

だいたいの場合「同じです」「いいです」と表ではそういう顔をしておいて、裏では限られた少人数でああでもないこうでもないと言っている場合が多いのだ。なんでわかるかって?ごめんわたしそういうのの嗅覚が鋭いのです。

でね、こういう「長いものに巻かれるタイプ」って、実はめちゃくちゃ大量にいて、そしてめちゃくちゃタチが悪いのではないかと思うことがあった。

主義主張を唱えない主義で、みんなの前ではシレっとしているし異論も唱えない。まではいいけれど、困っている人も見て見ぬふりする。日本は人が倒れていてもなかなか声をかける人が現れないと何かで見たけれど、まさにそんな感じで「関わらないのが得」とばかりに知らん顔をする。

「いじめ」についても、先日息子とそういう話をしていて気づいたことがあった。

いじめる人といじめられる人が1対1なら「いじめ」にならない。
いじめる側になんとなく同調している「長いものに巻かれる大衆」がいるから、「大勢 対 1人」の構造になってツライのだ、と。

ということはだね。

いじめてる人、いじめられている人、の当事者ではなく、それを作っているのはこの「物言わぬ大衆」じゃないのか?って話になる。

物言わぬ大衆=サイレント・マジョリティ

用語説明:【サイレント・マジョリティ(silent majority)】

積極的な発言行為をしないが大多数である勢力のこと。アメリカのニクソン大統領が、1969年11月3日の演説で「グレート・サイレント・マジョリティ(the great silent majority)」と、この言葉を用いた。当時、ベトナム戦争に反対する学生などにより反戦運動がうねりを見せて高まっていた。しかし、ニクソンはそういった運動や発言をしない大多数のアメリカ国民はベトナム戦争に決して反対していないという意味でこの言葉を使った。それ以降、「発言はしないが現体制を支持している多数派」というニュアンスで用いられるようになった。(Wikipediaより)
マーケティング用語としても、「発言しない大多数の消費者」との意味で用いられている。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20130307-a016/

もともとの意味は違えど、日本はこの「積極的に発言しないが長いものに巻かれる静かな大多数=サイレント・マジョリティ」がけっこうよからぬほうに寄っている気がする。

誰かが困っていても知らんふり。意見はありますか?には下を向いて答えない。なんか強そうなほうについておく。誰かが石を投げたら、ついでに石を投げておく。わざわざかばったりしたら、自分に向かってきちゃうもんね。

というこの事なかれ主義の方たちって静かだから目立たないのだけれど、一番タチが悪いのではないか?と思っている。

というのもわたし自身、以前信じられないような目に遭って、その出来事を分析してみたのだ。

あった出来事は、このときに書いた記事のようなこと。

事の発端になった火付け役が、大人としてそれはどうかという振る舞いであったのはもちろんだが、それを一緒になって騒ぎ立てた人たちは、その本質について1ミリでも自分の頭で考えたのだろうか?と不思議になる。

そもそもこれって騒ぐほどのことなのか?と思うのだが、止めた人が皆無だったから騒ぎになったわけで。一緒になってヤイヤイ騒ぐのは、アラフィフ世代のやることではないと思うのだけど。幼稚園なのかねこの世は。

そして騒いでいる人を傍観して、それまでは仲良さそうにふるまっていたくせに、シレっと大勢側に寝返ってる人がまぎれているのもわたしは見逃していない。存在を消して関わらないようにしようとしているずるい人、自分は関係ないと思っているかもしれないけど、ちゃんとわたくし存在に気付いてますからね。

面倒なこと、声をあげることは誰かがやってくれるでしょ。と人任せにして、何もしないくせに文句だけ言って長いものに巻かれて難を逃れて、自分の意見はなし。な人が多すぎるよなぁと思う。

朝のバラエティでも、殺人事件の犯人をああでもないこうでもないって予想するだけで中身がないし、それをフムフム、それはひどい!という話題がひとり歩きして、なんかとにかく犯人を叩いておけなムードになったり、その逆で被害者がワケアリでそりゃあ殺されても仕方ないよね的なムードになったり、そういうのも全部部外者が勝手に作り上げてるものだ。

サイレント・マジョリティの存在を否定こそしない。けれどそれをやっている人は何も罪はないと思っているのかもしれないが、その「無思考」こそが誰かをいじめること、責めることにつながっている可能性がある、ということは自覚しておいたほうがいいと思う今日この頃だ。

今日もお読みくださりありがとうございました!

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