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フラメンコ発表会で、駆け抜けてきたこの10年間を振り返る。

先日、5回目のフラメンコ発表会を終えた。

独身のときに始めたフラメンコ。その奥深いリズムと、足で打つリズム、日常からかけ離れた豪華な衣装にハマってしまった。


その後妊娠が分かって泣く泣く教室をやめたけど、育児中もどうしてもフラメンコがやりたくて、教室を探して、息子が小1の頃に再開。そこからまる10年になった。

最初はガチガチだった発表会も徐々に慣れてきて、舞台を楽しめるようになってきた。

見に来てくれる友達たちも、前回からの変化やコメントをくれて、それもやりがいになる。

差し入れ、ありがとうね。

1.振り返ればあっという間の10年


振り返ってみれば、あっという間のようで、長い10年。
だって、子どもが6歳から16歳になったんだもんねぇ。

毎回会場となるこの舞台を見ると、今までの発表会のことが走馬灯のように駆け巡る。

ここの先生は、うちより1つ上のお子さんがいるので、時間帯も平日昼間の主婦時間のレッスンで、しかも子連れOKだったのでありがたかった。

まだ子どもが小さいころは、夏休み中に子連れで行って、教室内で子どもにゲームして待っててもらったり。周りの生徒さんたちの子どもも同世代で、夏休みは賑やかだったなぁ。

そんな中で出た久しぶりの発表会は、ドッキドキに緊張した。でも思いっきり楽しめたけど、正直自分でも下手くそだったなと思う(笑)

発表会は、負担になりすぎないように2年ごとに設定されていて、2年間かけて練習した振り付けを発表会で発表し、また2年先の発表会に向けてゼロから振り付けをスタート。そのサイクルで必死でやってて、気づいたら10年経っていたって感じ。

だけどその時の発表会ごとの記憶はすごく鮮明で、あの曲を踊ったときは、こんなことがあったなぁ、と曲ごとにその当時の自分がリアルに蘇る。

2.乳がんで出た発表会の記憶


特に印象深かったのは、やっぱり乳がんで手術をして、抗がん剤を打ちながら発表会に出たとき。

乳がんが見つかって手術と抗がん剤治療をすることになったけれど、半年後に発表会が控えてた。だけど、そのときにいたクラスは、もっとうまくなりたくて自分の実力以上のクラスにぶら下がっていた状態。

ここまで来て辞められるか、わたしは絶対に出る!と抗がん剤を打ちながら意地と根性で発表会に出ることを決めて、手術後は腕が上がりにくいとされるリハビリもしゃかりきに頑張って、退院3日後にフラメンコのレッスンに行って先生にドン引かれながらも発表会を目指した。

白血球が減る時期を避けて発表会に出られるように医師に相談したり、フラメンコの髪型ができるウィッグを探して髪型研究をしたり、とにかくあれこれ調べたり相談したり必死だった。

治療中にメンタルもやられてどんどん痩せちゃって、サイズを詰めても詰めてもどんどんブカブカになっちゃった衣装のこととかも、ちょっと心が痛くなるけど思い出すなぁ。

結局痩せて体力が落ちて、ただでさえない体幹もグラグラのまま、なんとか発表会に出たけど、出られたことはわたしの一生の糧になると思った。

そんな発表会に、乳がんの入院中に知り合った友達が見に来てくれて、涙ながらに「希望をもらえた」って言ってくれたり、それ以外にもわたしが乳がんの治療をしながら発表会に出ることを知って応援に来てくれた人たちはみんな喜んでくれた。

わたしが生きて、好きなことをしている姿を見て、喜んでくれる人がいる。

というのを生まれて初めて感じて、生きてていいんだって思った。
でもその後、目標達成してしまったせいかひどいウツになってしまい、大変だったけどねぇ。それでもフラメンコだけはやめちゃダメだと思って、ハードに続くその次の年の振り付けも、頭に入らないながらもなんとか通った。

3.生きてる喜びを全開にしたアレグリアス


そうこうしているうちにまた2年。そのころにはやっと気持ちもどん底から這い上がって元気になった。

ひと皮むけたというのだろうか、「悩んでてもしゃーない」モードになり、全然食べられなかったご飯がだんだん美味しくなり、今までの分を取り返すように大食いしたら、めちゃ太った。

デブ全開で迎えた次の発表会は、体形が全然変わっちゃったけれど、明らかに幸せそうになってたと思うし、実際幸せだった。

踊る曲も「喜び」を意味する「アレグリアス」という曲で、踊っている自分が生きている喜びを感じながら踊った。

その頃息子は小6で、中学受験の受験生。塾に缶詰め生活で、送り迎えやら模試の付き添いやらで忙しい中のフラメンコは、気を紛らわせるにもすごく助かったなぁと思う。

4.コロナ禍をかけ抜けて踊った舞台


やっとこさ息子の受験が終わってやれやれと思った矢先、いきなりコロナ禍に突入した。わたしはあんまりコロナを怖がらない側の考えだったし、先生もそのあたりはリアル派だったので、リアルレッスンに参加し続けたけど、日を追うごとにオンラインレッスンに切り替えるメンバーが増えて、徐々に教室から人が減っていった。

一時期は先生とリアルな生徒はわたしだけ、なんて時期もあった。その後みんなが教室に戻ってきてからは、マスクをしてのレッスン。最初は布マスクだったけど、そのうち不文律的に不織布マスクをしてのレッスンになって。とにかくマスクが苦しくてしんどかったなぁと思いつつ頑張った。

だいたいレッスンは防音室の密室だし、移るときは移るだろと思っていたから、マスクの意味を感じなかったけど、言えないよね。うん、今でも匿名じゃないと言えない(笑)

そんなマスク生活の中で、先生も発表会をどうするか悩んだようだけど、予定を半年ずらして決行。やっぱり発表会ってひとつの区切りで、この発表会が「コロナ禍で大変だったなぁ」の発表会という記憶に刻まれている。

5.そして今回は「開放感」を感じる発表会


そして今年。わたしにとっては5回目の発表会。
乳がんでガタガタだったり、元気になって太ったり、コロナ禍だったり、あれこれあったけれど、今回は途中まではコロナの波があったけれど、発表会に直前の半年は、5類に引き下げも見えてきたので徐々に空気も緩んできた。

前回の発表会が半年ずれ込んだので、今回は持ち時間1年半の短い準備期間となった。

コロナの波が上がったり下がったりでやっぱり振り回されたレッスンも多かったし、振り付けが進まないのに日が迫るという焦りもあったりで先生がヤキモキしていたり、自分たちも「やばいよやばいよ」と焦ったり。

だけどその間に自分はソロライブに出る機会ももらって、自分が人前に立つにあたり、できる練習、できることはやり切ろうと思ってそこで踏ん張ったのが自信につながったのか、今回はとても余裕をもって楽しむことができた。

ソロライブが決まったときに、安定した踊りのために体幹を身につけたくて始めたマシンピラティスも1年を超え、自分比ではあるけれど、明らかに足も打ちやすく、踊りやすくなっている気がした。

今年はそんな風に余裕をもって張り切れるはずだったのだが、1年前から決まっていたこの発表会の日に、旦那がわざわざ計画入院をブチ当てるという失態をやってのけてくれ、ひと悶着あった。子どもが小さい頃は、子どもを置いて家をまる一日あける発表会には、家族の協力が不可欠だったから。

そんな感じで旦那不在が判明し、息子はどうしようとオロオロしていたら、息子はこともなげに「オレ別に留守番できるよ」と言った。よく考えたら息子は高1になっていた。

割とひとりでいるのも嫌がる子だったのに、打ち上げまでフルコースで行ってもオッケーと言ってくれるように成長したのが地味に感動。

でも軽い入院とはいえ旦那の入院と自分の発表会が重なり、準備とかあれこれで直前は気が気ではなく、かなりテンパったけどね。

それで迎えた当日、この景色を見るとやっぱり「あぁ、また2年経ったか」と感慨深くなる。

今回は練習期間が短かったけれど、舞台上では自分史上いちばん軽やかな気持ちで踊れたかなと思う。

もちろん緊張感はあるんだけど、それは楽しもう、という緊張感。
終わった後の爽快感、打ち上げでみんなで乾杯のビール。ここまでが発表会ね。

今回も乳がんの友達や、ずっと昔から来てくれている友達、入門の頃に一緒にフラメンコを習っていた友達などが応援に来てくれた。

みんな長いこと見てくれているから、わたしの変化に気づいてくれる。それもやりがいのひとつになっているし、フラメンコを定点観測で見てくれている人がいるというのもわたしの幸せだし、続けるモチベーション。ほんとにありがとう。

プロにはならないけど、でもわたしの中の優先順位がめちゃくちゃ高くて、だから「ライフワーク」と呼んでいるフラメンコ。

発表会が終わって、また振り付けはリセット。一からスタートする新しい振り付けを習いながら、2年後はどんな思いでこの舞台に立つのだろうか、そのときにはどんな自分になっているのだろうか。と思うとワクワクが止まらない今日この頃だ。

今日もお読みくださりありがとうございました!

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