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「好き」は自分が思うよりニッチだ

気になることがある。

「この短歌が、この文章が、この絵がエモい」と言っても夫に伝わらない。逆にわたしは夫の仕事である映像の編集技術に対してエモさはあまり感じない(※尊敬はしている)。

この差はいったいなんだろうと話していたら、鑑賞の絶対量の違いだという結論に至った。ちなみにわたしは自己肯定感が低めなので、自分が特別ひとと比べて文章を読んでいると思ったことは一度もないし、むしろ読書量は少ないほうだと劣等感を持っている方である。絵についてもそうだ。好きで毎日見ているけれど、もっと見ているひとがいるのを知っているから、少ないほうだと思っている、のだけれど。

自分にとってあたりまえのことが、誰かにとってあたりまえでない―そんなこと知ってるつもりになっていたけれど、あらためてそのことに気づかされる。自分が「偏って」いること。わたしは日々あたりまえのように誰かの絵や物語を楽しんでいる。でも、「絵の鑑賞の仕方がよくわからない」というひとの言葉を思い出すと、自分がずいぶんニッチなところにいるのかもしれない、と気がつく。

自分の視点がぐんと引きになって、「わたし」の現在地が急に鮮やかに見えてくる。「この曲線がいい」とか、「この言い回しに情緒を感じる」とか、だれしも思っているわけではないのか……。えっそうなの。ちょっとさみしさがある。

でも、そう考えると、わたしたちがそれぞれ行っている「なんてことない」ことは、ものすごくニッチで、専門的で、複雑で、誰かと共有することは自分で思っているよりもむずかしく、奥深いものなのかもしれない。

好きなものはつきつめるとニッチになる。そのニッチさをときほぐし、明るい場所で見せてもらったとき、初めてその魅力を理解できることがある。誰かの偏愛の話を聞くのが楽しいのは、自分の知らない「なにか」の魅力を知ることができるからだし、その日からその「なにか」の輪郭ははっきりとして、わたしのなかでも特別なものになるからだ。

そう考えると、楽しいしおもしろい。ちょっとだけさみしかった、自分の「好き」と、ひとの「好き」が違うことも。

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