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伊勢日記 1巻

6時半起床。

今日から伊勢に行く。洗濯をし、買っておいたロールケーキを、夫と半分ずつ食べる。段ボールをまとめてゴミに出そうと玄関を出たところで、重いドアに左の薬指を挟んだ。遠くに行くときは気がそぞろになって、思いがけないことが起きる(起こす)ので要注意である。このくらい大丈夫大丈夫と言って出かけたけど、名古屋を過ぎたいまもなお痛んでいて、すこし不安な気持ちになっている。湿布を貼った方がよかっただろうか。腫れていないから大丈夫だろう。

三重には夫の実家があるので何度も訪れているけれど、1人で行くのは初めてだ。名古屋から三重方面への乗り換えも、勝手がわからずおろおろしてしまった。

一人の旅は、色も光もはっきり際立って見える。陽に照らされた川の流れはまぶしく、山を形作る木々の色や形はおどろくほどさまざまで、ときどき喉元が苦しくなるほど心が動かされる。そこにひととの記憶が重なりいっそう色を増し、目に映る風景に特別な彩りを与える。わたしは記憶を積み重ねながら生きていく生き物だから、ただ見るというのはむずかしく、特別な景色を心に留めながら見るという見方ができるし、そういう見方から離れることはできないのだと思った。

遠くへ行かないと書けない言葉がある、と思う。それはなぜかわからないのだけど、言葉は、意識しなくともその土地の風景から生まれてくるものなのかもしれない。いまここにある風景は、わたしの記憶が重なって、わたしにしか見えない風景になっていると思うと、急におもしろく思えてくる。それを書き留めておくことは意味のあることなのかもしれない。誰かの何気ないスナップ写真を目にしたときにふと訪れる感情を思い出す。

伊勢にいるあいだ、なにがあるのか、なにをするのか、どんな気持ちになるのはわからない。ただ、この日記をつけることでこれから先の自分が励まされることがあるかもしれない。過去の日記に励まされた、いまの自分のように。自分のために書く言葉もまた、愛だ。自分が生きていることへの。

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◆浮かんだこと

これが最後だと思うと急に価値を帯びて見えてくるのはなぜだろう、どの回も同じように価値があるはずなのに、最後にだけ特別な感情を交わそうとしたり、たしかめようとしたり、静かに味わったりするのはやめられないのだけど、最後のときにだけ特別な意味づけをしてしまうことで、苦さだけが残ることだってあるだろうと思うのだった。最後にうまく別れられなくても、豊かな日々もあったはずだ。最後にだけ焦点を当てると、誰かとの、また何かとの喜びの日々を上から悲しみの色で塗りつぶしてしまうような気がするのだ。

これからしばらく伊勢でのことを書いていこうと思います。日記は苦手なのですが、この期間のことは書き留めておきたいと思いました。もしよかったらおつきあいください。

今回参加している、伊勢市のクリエイターズ・ワーケーションについて


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