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セレンディピティを欲している、適量の

朝目が覚めて用事をすませると、どうしようもなく眠くなったのでソファーで横になった。3時間ほどしてから目が覚めて、頭もすっきりしている。

お腹がすいたので湯をわかし、カップラーメンを作ってベランダへ出た。

夏である。

夏に家族で出かけたプール、そこで食べたカップラーメンの記憶があまりに鮮烈で、わたしの頭の中でカップラーメンと夏はしっかり紐づいている。水につかって冷えきった体で熱いものを食べる、あのときの幸福感が映像とともによみがえってきて、ほんのすこしノスタルジックな気持ちになる。

2か月ほどになるのだろうか、展示や、喫茶店や、居酒屋や、本屋や、ウインドーショッピングや、打ち合わせや、いままでは生活の一部だった時間がごっそりなくなってから。そのかわりに仕事のことを考える時間、作業をする時間がいままでと比べてぐっと増えた。自室が仕事部屋なので、Huluを見たあと、なんとなくPhotoshopを立ち上げて画像補正をしているようなオンオフの連なり。

そんなわけで、休日という休日がなんとなくなくなったように思う。イラストレーターだから企業が休んでいる土日もよく稼働するという意味で、休日問題はコロナ以外の要素も含まれていると言えるのだけど。

そういえば、今日Twitterを見ていて、セレンディピティ(serendipity)という言葉が目に入って心に引っかかった。どういう意味だったっけ?と辞書にあたってみた。

the fact of finding pleasant or useful things by chance
macmillan dictionaryより引用

偶然、楽しいことや役に立つことを見つけること。

それは外の世界にある。
昨日のnoteに書いた個展での体験の中にも、セレンディピティがたぶんに含まれている。

内向的なひとは内向的生活だけで満足できるわけではない。それはたとえばひととの軽い言葉のやりとり、外交的なひとが見せるカジュアルな気遣い、新しいひとやものとの出会いとか、そういうものに対しても喜びを感じる。それはもちろん外交的なひとが感じる適量とはだいぶ違ってくるけれど―というようなことを下記で紹介した本で読んだのだけど、まさにいま自分が感じている疲労感の源泉は、その不足にあると感じる。街を歩いていて思いがけず拾うなにかとの出会い/外的な刺激を切望している。もちろん適量の。

自分が気持ちよく暮らすために必要なこと。それはひとによってさまざまだけど、自分の心と対話しながら、ときには心の中の小さい自分に話しかけるような気持ちで、本当に望むことは何かをすくいとり、行動するときにそれを反映させること。答えは外の世界ではなく、中の世界にある。適量の刺激も、内的な深い思索も、どちらも自分が快適に生きていくにあたって必要不可欠なのだ。

*内向的なひとの特性への理解が深まる、おすすめの一冊(タイトルは気にしないでくださいw)


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