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わたしは貴方と分かり合いたいのです。

専門学生のころから
大好きな洋服屋さんがあり
学校に行く時もプライベートも
その洋服屋さんの服ばかりを着ていました。

ある日いつものように
そのお店で買ったTシャツを着て
電車に乗っていると
座席の向かい側に座った白髪の外国のおじさまが
不思議そうにジッとこちらを見ていたのです。

・・・なんだろう。
私なんかしたかな?

おじさまにバレないように一瞬チラッと見ると
おじさまの目線がわたしのTシャツを
見ていたことに気がつきました。

ん?Tシャツ?

それでもなお
なんで見ていたのか
まったくわかりません。

でも家に帰って鏡を見て
その答えがわかったのです。


わたしのブラウン色のTシャツには
白い文字で

”bonjour”

つまりはフランス語で”こんにちは”

・・・え?

・・・恥ずかしっ・・・!!

あとからジワジワくる恥ずかしさ。

きっとあのおじさまはフランスのご出身。

そりゃ不思議に思いますよね。

日本に訪れる外国のお客様のなかにも
たまに面白い言葉が書かれた
日本語のTシャツを着ている方が
いらっしゃいますよね?

言葉の意味がわかるにしろ、わからないにしろ
字体のかっこよさとお洒落さで着ていたのです。

まさかアウェイではなく
ホームでそんなことが起きようとは
思いもしませんでした。

それ以降そのTシャツをクローゼットの奥に
仕舞い込んだのは言うまでもないでしょう。

こんな些細なことですら
国ごとに認識の違いがあるというのに
手を取り合って平和になろうなんて
難しくて当たり前ですよね。

そもそも日本人同士ですら
分かり合えない時がありますから。


わたしが小さい頃
ピアノの習い事のお迎えにきた母と
帰り道を歩きながら

わたしは電線に止まるカラスを見て

「あれが楽譜だったらシかな?
それともドかな?」

と母に言ったことがありました。

わたしは3本しかない電線を五線譜に例えて
一番上の線に止まるカラスが音符に見えたから
冗談混じりに母にそう言っただけなのに

母は首を傾げて
”面白いことを考えるね”
とさらっと話を流しました。

わたしはその瞬間に
なんとなく寂しくなったのを
今でも覚えています。

わたしが言ったことが変なのか
母は五線譜が読めないからそう言ったのか

それは定かではありませんが

わたしはただ”確かにそうだね”って
同意の言葉が欲しかったのかもしれません。

自分の肉親ですら
分かり合えないこともあるんだと
そのとき子供ながらに思いました。

自分が当たり前だと思っていることは
相手からしたら当たり前ではなく

なんとなく発した言葉が
棘のように細く深く
自分のなかに入り込んで
一生抜けなくなることもある。

その当時
家族仲は良好なほうでしたが
交友関係は良いものとはいえず
母との何気ない会話ですら
心に残っていたりします。

言ったほうは忘れていても
言われたほうはいつまでだって覚えている。

そんな些細なすれ違いで
ほころびが生まれて
いつか仲違いや争いが起きます。

知らないということは
とても危うく脆いもの。

世の中には”知らない”ということを棚に上げて
自分の知識に胡座をかく人もいますよね。

それは知らないのではなく
知ろうとしていないだけ。

それではいつまで経っても分かり合えない。

まぁそもそも
そんな態度の人とわかり合うこと自体
時間の無駄かもしれませんが。

分かり合えない者同士の言い争いに
終わりはありません。

解決は絶対に望めない。

”分かり合いたい”
とお互いが心から思わない限りは。

そもそもこの世にある物事が
全て正解と不正解に分けられるのならば
裁判なんて必要ないのです。

揺るがない事実よりも
まだ目に見えない真実こそが
一番重要で大切で
なによりも丁重に扱わねばならないのです。

わたしたちはいつだって

”知らないということを
知っておかなければならない”

それが優しさであり
想いやりと呼べるものなのでしょうね。


由佳

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