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ゲームの美学:シリアスゲームと非現実界 [ Worldbuilding 展より #1 ]

「ゲームの美学」からの理論を援用しつつ、現代美術の作品を見る。
今回は、ハンス・ウルリッヒ・オブリストのキュレーションによる Worldbuilding 展の出品作品から。フランスのメッスにあるポンピドゥーセンターと、ドイツのデュッセルドルフにあるユリア・ストシェック財団で同時開催された、大規模なゲームとアートの展覧会だ。

アートは難しい、わからない、といわれることが多い。ことに現代美術は、政治的なことを扱ったりすることもあるので、やたらとシリアスで難しそうという声も聞こえる。そこで、ゲームで客寄せ…というほど単純でもないだろうが、コンテンポラリーアートのスターキュレーターともいわれるオブリストがどのようにゲームとアートを見せるのか、興味が湧いた。

会期終了間近の2024年2月3日、私は息子を連れてデュッセルドルフへ赴いた。

ユリア・ストシェック財団は、日本ではまだそれほど知られていないかもしれないが、ベルリンとデュッセルドルフ、2箇所でコレクションを展示する、ドイツでは屈指の映像やメディアアートを専門とする個人コレクションの財団だ。世界中を飛び回り数多くの展覧会を手がけるハンス・ウルリッヒ・オブリストとコレクターのユリア・ストシェックは友人同士。二人の間でいつか彼女の15年間にわたるコレクションからゲームとアートの展覧会を開きたいと長年温めてきた企画らしい。

ステートメントでオブリストは、以下の三つのタイプに作品を分類している:
1.ビデオゲームの様式に影響を受けて自分の作品に取り入れているタイプ
2.ビデオゲームの中に入り込んで、その中で展覧会のような形で自分のプロジェクトを展開するタイプ
3.自分自身のオリジナルのゲームを作るタイプ

こうした分類は、作品の傾向を「形式的に」整理するのには有効だ。アートに取り入れられたゲームやアート作品としてのゲームをこのように俯瞰することで、ゲームがもはやジャンルではなく、むしろメディアや手法のような役割を果たしていることも分かるだろう。

ここでは私は、一つ一つの作品を構成する骨組み(とその背景)について考えることから作品を捉え直していきたい。そうすることで鑑賞者である私たち、そして社会とこれらの作品を結びつけることができればと考えている。
その際に手解きとして援用するのが、ゲームスタディーズからの概念の援用だ。

Serious Games というタイトルの作品


まずは、Harun Farocki ハルン・ファロッキというチェコ出身のドイツ人映画監督/アーティストの《 Serious Games 》(2009-2010)という作品からはじめたい。
作品は、アメリカ軍の兵士のトレーニング用に使われているゲームソフトをの画面とともに、実際にそのゲームによってトレーニングを受けている兵士の様子を見せる2つのビデオ映像で構成される。つまり、訓練生の兵士が室内のディスプレイに向かい、アフガニスタンの街並み、道端に隠れているテロリスト、爆撃による砂埃などがリアルに再現され、イメージトレーニングする様子がそのゲーム画面とともに映し出されている。

作品名の《 Serious Games 》は文字通り訳すと「シリアスな/真剣なゲーム」となるわけだが、これは作品のタイトルであるだけではなく、そもそもこの種の教育的(この場合は軍事的教育)目的で作られたゲームのジャンル「シリアスゲーム」を指すことに注目しよう。

「シリアスゲーム」とは?

平たくいうと、通常のおもちゃとしてのゲームはエンターテイメント(ゲームの中での勝負、その過程の面白さ)を目的としている。これに対し、「シリアスゲーム」の目的はゲームの中(の勝負)にあるのでなく、最終目的は、ゲームの外(での勝負に勝つための能力を養うこと)にある。
これは、たとえば車のレースゲーム「マリオカート」がゲーム内での勝ち負けや過程を楽しむことが目的として設定されているのに対して、「自動車教習所用の運転シュミレーター」の目的は、勝ち負けではない「運転技術の取得」であることを思い起こすとわかるだろう。つまり「マリオカート」が通常の「ゲーム」であるのに対して、「運転シュミレーター」が「シリアスゲーム」にあたる。

デジタルゲームの誕生からいまを見る

ここですこしゲームの草創期を振り返っておきたい。実は歴史を紐解くと、デジタルゲームそのものの誕生の所以は、20世紀前半のコンピューター黎明期に、チェスなどの勝負を競うゲームを計算機にプレイさせるというところにあったという。つまり、そもそも人間の所作である勝ち負けを競う「ゲーム」を計算機に模倣させることがコンピューターの技術構築をうながし、デジタルゲームへと発展したわけだ。

ちなみに世界初のコンピューターゲームといわれる《 Spacewar! 》は、冷戦期の1962年に生まれた。MITに世界初の商用汎用コンピューターPDP-1 が寄贈されたのをきっかけに、”コンピューターを愉快犯的に操ることを楽しむ”ハッカー文化にあふれた若い技術者達の手によって、本来の真面目な目的とは異なるゲームが生み出されたという。2機の宇宙船が滞留時間を競うもので、当時のアメリカとソビエト連邦の宇宙開発競争をいわば冷笑したものだ。

PDP-1 《 Spacewar! 》1962年MITで開発された世界初のコンピューターゲーム
写真はベルリンのコンピューターゲーム博物館にて、2024年5月:筆者撮影


ところがいまこうして《 Serious Games 》にみられるように、戦争という人間の所作の中でも最たる悪しきものを、逆にコンピューター「ゲーム」によって模擬的に練習をさせられるという愚かさ。国家間競争を皮肉った科学者たちが「戯れ」でつくったコンピューターゲームが発展して、国家産業としての殺人を担う兵士を「真面目に」訓練するために使われる。
ここまで考え通すと、この《 Serious Games 》という作品は、私たち人間の過去の技術発展の歴史にも、未来の私たちの技術との関わり方にも開かれているといえるだろう。

私がハルン・ファロッキのこの作品を最初に見た15年前は、ちょうど中東地域の戦争が長期化していた頃で、ゲーム(遊び)で戦争の訓練をするとは、とショックを受けたことを覚えている。
いま、15年前よりもさらに発達した情報機器に囲まれながら、戦争を横目で見つつ日常を営む私たちは、高度な技術との関わり方がさらに深く問われているのではないだろうか。

技術はなにのためにあるのか?私たちは便利な技術に依存するあまり、それに支配されていないだろうか?

Second Life : 非現実のドキュメンタリー


次に紹介するのが、Cao Fei カオ・フェイによる《 I. Mirrored by China Tracy 》(2007)、こちらも今から約15年前の作品。
かつて Second Life セカンドライフ(略してSL)というプラットフォームが流行した(今もあるらしい)。インターネット上の3D仮想世界でユーザーは、自身のアバターを通じて身体的現実とは異なる世界を生きることができる。この作品は、このセカンドライフ上の「ドキュメンタリー映像」という位置付けだ。

中国出身のアーティスト、カオ・フェイは、China Tracy というアバターとしてセカンドライフに存在し、 Ken というサンフランシスコの男性と逢瀬を楽しむ。二人は、ともに歌を唄い踊り、ピアノを奏で、チャットでメッセージを交換する。その中で繰り広げられる人生には、それなりの感情の起伏はあるが、何の結末ももたらされていない。男女の出会いと別れは淡いもので、大きなドラマは描かれていない。

むろん作者によって編集がされていても、意図的なドラマ展開が排除されている点でドキュメンタリーだといえるだろう。(ただし、この作品がフィクションであるかどうかは、確認のしようがないので留保しよう。)さて、ここで注意したいのは、そこにはそもそも「女と男との出会い」という設定があり、「物語を語る(=ストーリーテリング)」ための下敷きがあることだ。この設定があるという条件が、実は大きな意味を持つ。

スポーツとゲーム、そのドキュメンタリー

物語を語るための設定があるドキュメンタリーは、成立するのだろうか?

やや横道にそれるが、スポーツの試合のダイジェスト版報道を引き合いに出してみよう。注意しておきたいのは、スポーツの試合が英語では「ゲーム」と言われるように、スポーツもゲームの一種である。そういう意味では、例えば「AとBが勝ち負けを争う」という試合の結果を編集した映像は、「ゲーム」の「ドキュメンタリー」ともいえる。

ここで《 I. Mirrored by China Tracy 》に戻ると、「Ken と China Tracy の出会い」は勝ち負けの判定もルールもないが、「SLに行くと会える」「Chatで声をかけると返事が返ってくる」という継続性とそれに基づく信頼が築かれている。この継続性と信じる行為があたかもゲームのルールのように振る舞う。つまり二人の出会いはあたかもゲームのように映し出されることになる。

ここでやや大雑把にまとめると、美術作品《 I. Mirrored by China Tracy 》(Ken と China Tracy の出会い)も、たとえば「サッカーの試合」(AチームとBチームの勝負)もいずれも、ある場所・時間帯に起こった「ゲーム」の「ドキュメンタリー」という点では同じである。
逆にいえば、出会いを設定せずにセカンドライフを生きる主人公の様子をドキュメンタリーとして映像化するのは、サッカーの練習の様子を映像化するのと同じになる。

ところが「サッカーの試合」には明確に「勝ち/負け」の結果があり、それがドラマをもたらすエンターテイメントとなりうる。これに対して《 I. Mirrored by China Tracy 》には、「勝ち/負け」のような結果、あるいは「ハッピーエンド/悲しい別れ」のような「物語=ドラマ」がない(実際には「別れ」があるが、感情の起伏をもたらすようなドラマ性がない)つまりエンターテイメント性を排除しているのだ。

すなわち、「物語/ストーリーテリング」の要素(男女の出会い)をもちながら、「物語」とそれがはらむエンターテイメント性が排除されている。

Cao Fei《 I. Mirrored by China Tracy 》(2007) 映像作品のスティル
セリフの字幕「私たちはみんな金網の中にいる、誰かに見られながら…」:筆者による撮影


セカンドライフと生、シリアスゲーム

それでは、このセカンドライフもまた、「シリアスゲーム」の一つと捉えられるだろうか。いいかえるなら、セカンドライフでの(ゲーム)経験は、現実の人生をよりよく生きるための訓練になるのだろうか。

端的に、SL上のアバターの人生には目的がない。つまり人間関係(恋愛、友情など)や経済活動(労働、商売はできるが、それはゲーム上の評価基準にならない)などの経験値を貯めたり、運営会社が定めた特定の目的を達成する必要はないためだ。この点においてはSLは「シリアスゲーム」の条件を満たす。
だがここで私たちは、注意深く生の意味を考えることで、先の問いを排除しなくてはならない。

セカンドライフでは、「ユーザーによって創られた世界の中で生きる」ことが目的で、強いていうならそれは、私たちが生きる現実の人生においても同じだといえるはずだ。私たちは、与えられた生を生き抜くことを目的として生きている。よりよく生きるなどの価値は、相対的なもので、ましてや生に勝ち負けはない。

Cao Fei《 I. Mirrored by China Tracy 》(2007) 映像作品のスティル
セリフの字幕「そしてなにも起きなかった、なにも起こらないだろう…」:筆者による撮影


技術が非現実を現実化する

ここでもう一度美術作品としての《 I. Mirrored by China Tracy 》に戻ろう。男女のアバターの架空の(あるいはほんとうの)関係のぎこちなさを、初期のインターネット3D表現の荒い映像が二人に寄り添うように映し出す。カタカタとキーボードの音とともに現れるチャットメッセージもまた、感情を凝縮した詩的な言葉を投げ続ける。

地球の裏側の、出逢えようもない人との出会い。いうならば「非現実」を現実化する、そのさまに胸を打たれはしないだろうか。彼、彼女と繋がる方法は、唯一、インターネット状の架空の世界に身を置くこと。その中では彼女は空に浮かぶことすらできる。そうしたありえない生のありさまを当時の最新技術がたどたどしく追いかけ、描きだし、語る。
つまり、それはまるで仮想の世界への希求と信頼、それを具現化する現実の世界の技術、それらの幸福な出会いを眼にしたような感覚だ-それは例えるなら、中世の宗教美術において、訪れることのできない神や仏の世界を表象しようとした素朴な祈りに触れるのと似ている。

Eglise Saint-Pierre-et-Saint-Paul, Ottmarsheim 15世紀のフレスコ壁画
フランス、ドイツ国境近くアルザス地方の村オトマースハイムにて、2021年7月:筆者撮影


ここにない世界、仮想世界の存在を信じ、そこへ近づくこと、それを描写すること、そしてその中で生きる経験。そのような繊細な世界の表象がゲームの世界にも広がっている。古来から視覚表象を頼りに世界のかたちをつくろうとしてきた人間の所業がここで繋がっているのを目撃したように思えた。

高度に発達し続ける技術と人間の生との関わりを、シリアスゲームで行われる戦争と、セカンドライフ上の生において、裏と表で見せつけられたようだ。
「Worldbuilding 世界をつくる」という展覧会の意図の一端がここに見えるのではないだろうか。


[参考文献]
・ 中川大地『現代ゲーム全史』早川書房、2016年
第1章「ゲーム」の黎明、第2章「宇宙」が育んだゲームカルチャー:
電子計算機からコンピューターの開発の過程にゲームが果たした役割、さらにコンピューターゲームの誕生へと至った歴史がスリリングに書かれています。人間の技術の進展と遊戯の関係は考えるほどに奥深い…!

・ 松永伸司『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会、2018年
第6章「虚構世界」:物語とフィクションについての解説があります。難解な抽象的思考を、明晰に輪郭を示しながら丁寧にたどる描写はとても参考になりました。

・吉田寛『デジタルゲーム研究』東京大学出版会、2023年
第4章「ゲームプレイと他者への信頼」:ゲームをプレイするにあたって他者、そして世界への信頼がいかに大きな役割を占めているかについて。説得力があり、勇気づけられます。


記 2024年5月17日

*「Worldbuilding 」展については、今後引き続き作品を取り上げます。



本稿調査は、公益法人小笠原敏晶記念財団の2024年度研究助成を受けて実現しました。ここに記してお礼を申し上げます。

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©️yuka tokuyama


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