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私の背骨のはなし その4

結婚しますので、と会社を辞めたものの、半年後には自分で名刺を作って働き始めていた。積極的に仕事が続けたかったわけではないが、お誘いやご依頼には、いそいそと、そして嬉々として動き出してしまう質。一つの会社に所属していたうちは出来なかったような仕事を、フリーランスとしてやらせていただく楽しさ。というのを満喫していたのも束の間、そのうちの一つの会社の日本法人を立ち上げることに。

大学院時代の専攻、人事マネジメント業界で、それまでのコミュニケーション業界で身に付けたことも活用できるという、まさに海の向こうから降ってきた仕事が面白く、走り回っていた。しかし、子どもが欲しい、という気持ちとは裏腹に、新しい会社を育てること中心の生活になっていくことへの葛藤もあった、と思う。当時の夫も、応援してくれてはいたものの、なんだか当初の話と違うぞという気持ちが膨らんで行っていたに違いない。

そんな時に、もしもこのまま自分の子どもが生まれてこないのであれば、日本の将来を担う大勢の子どもたちの教育政策に携わるという形で役に立てないだろうか、と考えた。今思えば、何を血迷った?!という笑い話、とも言えるが、その時は本気で国政に出ようと考えた。諸々のセレクションなどを経て、襷を掛けて、駅頭でご挨拶。公会堂で演説会。人生、こんなことをやる日が来るとは。しかも、会社のクライアントの皆さまには、我儘な事情をご説明したところ、お叱りどころか、応援しますよとまで仰っていただき、お気持ちに応えようとさらに燃えた。

が、負けた。そもそも目的と手段が一致していなかったのだ。教育を良くしたい、という気持ちだけでは、政治は出来ない。政治の世界でやっていく覚悟も足らず、これにてキッパリ決別し、自分のできる形で、応援して行こうと思うに至った。なんでもかんでも自分がしゃしゃり出ていく生き方からの転換だった、と思う。この頃は、時々、おじいさん先生のところに顔を出して、全身の筋肉を緩めていただきながら、今、こんなことをしていて、とか、やっぱりやめました、とか報告していた。自分の中ではちょっと大きな変化だと感じながら話していても、先生はただ、それでいいんですよ、貴女は、その時、眼の前に来た波に乗るように好きにやっていれば、それがいい、といつものように笑って聞いてくださっていた。

34歳半ばで出産。この時は、父の会社と掛け持ちしていたこともあり、仕事は辞めず、ちょろっと休職。9カ月から保育ママさんに子どもを預けて復職。驚いたのは、妊娠中、大きなお腹を抱えるようになって通勤電車に揺られていても、全く腰痛は出ず、寧ろ、恐らく骨盤が広がったことで安定したのか、産後の子どもを抱く生活でも、脊椎側弯どころか、通常の腰痛も全く無かった。そして、本来ならば、生まれました!と報告に行くべきおじいさん先生のところから足が遠のいていた。

子どもがお座りをして、ハイハイをするようになった頃、あれ?左肩が下がっている。ハイハイも片方の脚しか蹴らずに匍匐前進。もしやー。不安になった私は、彼女を抱いて、おじいさん先生の門を叩いた。きっと大泣きするだろうな、他の患者さんにもご迷惑かけちゃうかな、という私の心配をよそに、どれどれ~?と先生が抱き上げて診察台にうつ伏せに置くと、おとなしく触られている。小さな子どもにも、この手は優しい手。自分を大切に思ってくれている人の手、ということは伝わるのだな、と思った。そして、一言。まったく問題ないよ。気になるようなら、ときどき見せにいらっしゃい。

と言われたのに、保育園―幼稚園ー学童保育、自転車で送り迎えしながら仕事が増えていく日々、そして燃え尽きた40代。ちょうど子どもが小学校に上がるところで、彼女の姓は私の旧姓になった。そして3年生の春にまた3人家族になったが、もう一度彼女が姓を変えなくていいように、とニューメンバーは二人きりだった戸籍に加入してくれた。この先10年、20年と考えて何がしたいのか?今の延長線上というだけでよいのか?と一緒に考えてくれた結果、私は先遣隊としてアジアの地に身を置くことを決めた。人生2度目の結婚式をした数カ月後、子どもの夏休みに、数年後には引っ越そうというプランで下見旅行に出た。

そしてそのまま、格安優良マッサージ天国のマレーシアに住み着いてしまったのだった。おじいさん先生には、行ってきます、も言わずに。

つづく。

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