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子ども

私は、自分中心でものを考える傾向が強い。人から、優しいね、親切だね、と言ってもらえるとすれば、それは、自分がしたいことをしているに過ぎないからです、ということになる。憎たらしいので、そのようには口に出して言わないけれども。そうすることで自分が嬉しい気持ちや楽しい気持ちになることを率先してやっているのだ。自らを犠牲にして人のため、という精神は、持ち合わせていないし、そもそもあまり好きではない。

さて、30代前半、子どもが欲しいと強く思った。なかなかできなかったこともあって、余計にそう思うようになり、ふと、なぜこんなに子どもが欲しいのか?と自分に問うてみた。ここからが、エグい。こんなヤツの子どもに生まれたら嫌だな、と思っても言わないでくださいね。私に子どもを与えてもらえれば自分が成長できる可能性があるのに、だった。子どもを育てることでしか得られない経験や感じ方、考え方を私も知りたい、それを通じて、ちゃんとした大人になれるのではないか、と考えていたことに気づいた。

もうすぐ35歳になるという頃、ついに、そんな私にも神さまはチャンスを与えたもうた!十月十日コンプリートし、もうすぐ生まれてくる、という時になって、これはマズい。と後戻りしたい気持ちで一杯になった。相手は、人だ。自分の思い通りにならない人間が、自分では何もできない状態でやってくる。自分の成長なんて悠長で自分勝手なことを夢想していたことを後悔(反省ではない)しつつ、もうこのまま出てこないで、お腹の中にいてください、と願ったりしたことをはっきりと覚えている。あんなに欲しがっていた赤ちゃんなのに。

今まで、どれだけ自分中心に生きて来たかを思い知る、自分の時間、したいこと、好みのもの、好きな人たち、そういうものだけに囲まれた生活が一変する瞬間。寝ろと言っても寝ない、泣くなと言っても泣き止まない、これを飲め、食べろと言っても拒否。それが、相手の成長とともに、増えて行くばかり。なんなんだこれは。泣きたくなるような、というよりも泣きまくる日々。(←自分が)

好きな時に好きなことをする、それで成果を出す、なんてことは、なんとたやすいことだったのだろう。突然降ってくる数々の試練や無理難題(←大袈裟)、その瞬間にしたくないことをせねば、どうにも前に進めない日常、ルーティーンの連続、すべて自分中心の時代には、避けて通ってきたことばかり。大体出来そうなことを選んで、がんばらずにやれることを繋ぎながら、楽しい方向に持っていく。できる限り、時間の使い方が自由になる環境を選んだり、作ったり。嗚呼、真逆!

しかも、絶対に投げ出し禁止。神様が与えたもうたのは、史上最強に(←自分比)厳しい自己鍛錬のオポチュニティだったのだ。あれ?誰かさん、最初から、コレを望んでいませんでしたか?自分が成長できる機会を。かわいい赤ちゃんに会いたい。ふわふわでいいにおいのする赤ちゃんを抱っこしてみたい、なんて言っていましたか?という天からの声。

そうなのだ、どこの神様かは知らないが、ちゃんと私の望みを叶えてくださったあの日からもうすぐ16年。私の子どもとして生まれてきてしまったあの子は、パンチすると自分の手が痛い、サンドバックであったり、「ついてこい!」と自転車を猛スピードで走らせるマラソンコーチであったり、時には、これでもかと変化球を投げ出すバッティングマシーンであったり。小さなものから大きなものまで様々な選択や決断を迫る、名トレーナーだ。

今は、二つの海を超えた大陸にいる彼女。離れていて寂しくない?と聞かれるたびに、ふと考えてみる。ご飯やお弁当を作ってあげたいのに、いない?一緒にお買い物やカラオケもしたいよね。でも、寂しくないんだなあ。なぜかはわかっている。厳しいトレーナーはちょっと離れたところにいてくれた方が、よいものだ。自分だけでやっていると、弱いところダメなところがどんどん出てきて、トレーナーの存在意義、偉大さがわかるというもの。なんとなく、そろそろ会って、最近の私を見てフィードバックをいただきたいな、離れている間にこんなことが出来るようになりました、と披露してみて、ちょっとは褒めてもらえるかな、と思ったり。その日を目指して、ちゃんと自力で成長しておかないと恥ずかしいぞ、と思いながら暮らすのも悪くない。

コロナウィルスのパンデミックで、外国人の入国が制限されていたり、出国してしまうと再入国できなかったり、という国にいる私たちは、簡単には会うことができない。その中で、彼女が泣き言ひとつ言わずに自分の持ち場で奮闘している姿こそが、私にとっての名トレーナーの背中。私だって負けないぞ、という力が湧いてくるのだ。




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