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環境の中の自分

やっと緊急事態宣言やら、マンボーやらが全面解除され、面白いほど世の中がうきうきしたムードになった。ちょっと街を歩いてみただけでも、やはり、誰よりも辛い立場に追いやられていた飲食店が(ほぼ)通常営業の権利を取り戻し、マスク飲食ながらもお酒を片手に、久しぶりに直接顔を合わせて話しをするという、人間らしい時間を取り戻した客たちの笑顔、通りを歩く人々の活気がそういったムードを作り出しているのだな、と感じる。

Facebookでも、1年ぶりに会えた!などという友だち同士の笑顔写真がアップされているのを見ると、人って誰かと会うことがこんなに大切だったんだ、とつくづく感じる。人と人が、会って、話して、一緒に考えて、というところから生まれてくるものでこの世の中はできているといってもよいかもしれない。

あるとても社交的な友人が、コロナ禍でStay Homeだったし、ずっと人に会っていなかったから、急に沢山の人たちと会えて嬉しくてとても楽しいのだけど、実は、結構疲れて~、家に帰って一人になるとほっとする、というようなことを言っているのをきいて、うんうん、と膝打ち。そして、その時間、とても貴重でいいものじゃない?と言いたくなった。

元々ひとりが好きな私などは、Stay Homeいいじゃない、とエンジョイしていたわけだが、本当のことを言うと、実際は、全然一人じゃなかった。マレーシアで一人と猫3匹で暮らしていたのに比べると、夫もいれば、二世帯住居ゆえ、すぐ下に両親もいる。夏休みは、娘も帰国していた。途中、動くなと言われても、自動車の中と自然の中は「Home」と決め込み、めちゃくちゃ頻繁に移動もしていた。(県境を越える移動をしていました、ごめんなさい。)

とはいえ、ミーティングや会食の無い日々で、同じ顔触れとしか会わず、しゃべらず暮らしていた間に、今まで気づいていなかったことに気づいたり、ゆっくり見るようになったり、やったこともないことをやってみて、これいいじゃない、と、いつの間にか新しいルーティーンが増えていたりと、色々なことを考える時間が大幅に増えた結果、行動が変わっていることに気づいた。

何ごとも大雑把で面倒くさがりの私が、エコバッグをきちんと畳んでカバンに仕舞うこと、が習慣になったことは特筆すべきだ!ほんの少しの時間と心の余裕がこの大きな変化をもたらしたのだ!と書いて、嗚呼、ほかにもっとよい例がないのか?と自己嫌悪気味ではある。他にはー、ペンを取り挿絵とともにゆっくりとハガキや手紙を書くようになったことも、会いたくても会えない人に伝えたい言葉を、その人のことを思いながら、という時間が出来たおかげだろう。部屋の中で、ぼっくりから飛び出した種や、食べ終わったあけびの種を育ててみたり、アボカドの種の観葉植物化より一歩進むことができた。その他の植物たちも手入れされて、冬に向かっているというのに、心なしか輝きを増している。

野山で採って来たものを使った自家製調味料を作ったり、保存食のようなもので冷凍庫がいっぱいになったのも、買い物に出る頻度を下げたことや、外食が減って家での食事が増えたことと大きく関係している。そして、そういうことをしている人同士の繋がりも静かに出来てきて楽しかった。

悲しいこともあった。マレーシアでずっと留守番をしてくれていた三猫士のうちの二男、らんちゃんこと、蘭丸が天国に行ってしまった。この手で撫でてやることも、抱きしめてやることもできないまま、ビデオ通話越しに、名前を呼び、話しかけてやりながら、すーっと魂が空に抜けていくところを見守った。小さくかすれたようなおこりんぼうの声で抱っこして、とお世話をしてくれているお兄ちゃんに訴え、優しい彼の膝の上で猫なのに笑顔を見せてくれたことが救いだった。

人が思うように動けない、会えないということには、良きにつけ悪しきにつけ色々なことが伴う。それを振り返ってみて、これからも、出来ないことにフォーカスするのでなく、状況の変化の中で、自分がどのように変化し、新しい何かに気づいたり、手に入れたりすることができるようになるのかに注目してみたいと思った。


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