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そこからしか見えない景色

大変な思いをして山頂に辿り着き、そこからしか見えない景色を眺めて感動する、という状況を表す言葉だが、何にも登頂などしていないながらも、そんなふうに感じることがあったので記録しておく。

こうなったらいいな、こんなふうに出来るのでは?と想像を膨らませたり、もう少し具体的にプランを立ててみたりすることはよくある。その時に、今すぐそのために出来ること、すべきことはコレ、次はコレと計画する。このくらいまで進捗したら、次はきっとこうするのがよいだろう、などと先回りして考える。もちろん、もっと先の大きな絵を描いているから、そうすること自体に何も問題は無いし、むしろ無計画よりはよほど良いと思う。しかしー。

眼の前のことを粛々と進めていて、ふと気づくと大分先まで来ていることがある。そこで顔を上げて周りを眺めてみると、あらら、最初に思い描いていた風景とは大分違うところに来ていたり、思っていたのとは違う展開が見えて来ていたりする。そこでまた、さてと今やるべきことは何か?とだけ考えて、ひとつひとつ積み上げていく。するとまた、こんなことになってくるのか!と驚くような出来事が起こったり、新しい出会いがあって、思いもよらないことが始まったりする。

「今ココ」という言葉が流行し始めた頃、耳障りがキモチワルイなと感じ、人が使っているのを見聞きすると毛嫌いしていたのだが、気づいたら自分も使っていた。なぜだ?と考えてみたところ、恐らく、「今」「ココ」に到達したからこそ見える景色、すなわち自分が今置かれている環境、持っているモノ、分かっているコトで何が出来るのか、何をしているのかが、昨今の私にとっては非常に大事になってきているのではないか、と思う。

もっと若い頃は、これから何をするか、どうすればそれが成し遂げられるか、というようなことをよく考えたように思う。今は、もうその時に考えた未来に自分が立っているという意識があって、過去の自分に恥ずかしくないような自分でいたいという気持ちと、これまでの経験から、この先のことは「今」「ココ」で自分が何をするかが決める、ということを学んだからに違いない。

現に、2020年コロナ禍、マレーシアから一時帰国した時、2022年に不本意ながらもマレーシアから全面的に引き上げ、やっとのことで猫たちを連れて本帰国した時、その間、東京と箱根をウロウロしながら農家になろうと決めた時、今の場所に引っ越してきた時、私が今日やっているコトが想像できただろうか。

去年も今年も、元旦も誕生日も、一年の計を立てる余裕などないまま過ぎ、ふと立ち止まった今日、そこからしか見えない景色を眺めつつ、また眼の前のことに勤しむだけという気持ちを新たにした次第。後から付いてくるお楽しみを味わう日を楽しみにしつつー。





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