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パラサイトに失敗した美女の結末。知れば知るほどゾッとする、格差社会の残酷さ【映画 パラサイト考察Vol.1】

この記事は「パラサイト 半地下の家族」の考察記事Vol.1です。
*ネタバレあり

アカデミー賞®︎作品賞・監督賞・脚本賞・国際長編映画賞 最多4部門受賞カンヌ国際映画祭 最高賞 パルムドール受賞
「パラサイト 半地下の家族」

#パラサイト激ヤバ
↑これ、公式Twitterの拡散用ハッシュタグなんですが。映画を見終わった後の私の感想がまさにこれでした。

なにこの映画...ヤバすぎる!!!

観る前は、格差社会がテーマの映画だから暗く重い気分になっちゃうかな...なんて思っていたのですが、ぜんぜん違いました。

いや、実際、映画に込められたテーマやメッセージは非常に重く深く刺さるし、ラストシーンはおそらく“絶望”を描いている(②に詳しく書きます)。にも関わらず、エンドロールまですべて観終わった後、私の心に充満したのは、どういうわけか“希望”だったんです。ラストシーンの彼に感情移入していたからでしょうか。

客観的に見れば、彼のラストの語りは「無計画という計画」であり、叶う可能性の限りなく低い、夢物語でしかないんですけどね...。でも彼自身は決して希望を失っていない。どうにかして地下から這い上がろうとしている。ずっとずっと上を見ている。その姿に“希望”を感じたのかもしれません。

...と、感想を書き始めると止まらなくなりそうなのでこの辺にしておこうと思いますが、「暗いの嫌だな〜」とか「貧困映画あんまり見たくない」とか思っているそこのアナタ。
パラサイトは別格です。つべこべ言わず、とりあえず観て欲しい!

さて、本題の考察に移ります。

数々の考察記事や動画で話題になっていますが、パラサイトには全編を通して 「メタファー=隠喩」 が散りばめられています。

この隠喩がとにかく秀逸で意味深く、また受け手によって様々に解釈できる余地が残されているので、考えれば考えるほどハマっていくという中毒性があるんですよね。

このメタファーについては既に他の方がたくさん発信されているので...この記事では、大豪邸にパラサイトしていくキム一家(父・ギテク、母・チュンスク、兄・ギウ、妹・ギジョン)それぞれの結末から、資本主義経済が内包する闇・格差社会の本当の恐ろしさについて考えてみたいと思います。
*Vol.1は、妹・ギジョン編
*Vol.2 兄・ギウ編はこちらから
>>>

どうして妹・ギジョンは死ななければならなかったか

一番に妹・ギジョンについて語るのは、彼女こそが格差社会の最たる犠牲者だと感じたからです。

実際、一家4人の中で命を落とす結果になるのはギジョンだけ。それはなぜか。どうして彼女だけが死ななければならなかったか。

それは... 彼女のいるべき場所がなかったから ではないでしょうか。

覚えていますでしょうか。金持ちパク一家がキャンプに出かけた後、キム一家が我が物顔で大豪邸を満喫するシーン。

ギジョンは2階のバスルームで優雅に半身浴をするのですが、その姿を見た兄・ギウが妹に言うのです。

「ギジョンは豪邸が似合う。サマになっていた」と。

実際、その通りだと思います。ギジョンはキム一家の中でも飛び抜けて優秀な人材として描かれています。

見た目も美しく、頭の回転が早く機転が利き、美術の才能があり、誰の前でも臆せず堂々と振る舞う度量もある。一家の「パラサイト計画」を企てた首謀者は兄・ギウですが、そのクオリティを上げたのは間違いなくギジョンでしょう。

ギジョンの有能さは、彼女だけが元々いなかった美術の家庭教師という役割でパク家に入り込んだことや、一瞬で子息・ダソンを懐柔したその手腕(ここの描写は意図的に省かれていますが、恐ろしく“臭い”に敏感なダソンがギジョンだけを好意的に受け入れたのは、母性あるいは恋愛に近い感情を抱いたからではないかと推察します)にも表れていますよね。

ギジョンのような女性が、半地下で一生を終えるのはあまりにも惜しい。

もしも彼女がパク家のような富裕層の家庭に生まれてさえいたら...その才能をいかんなく発揮し、それこそパク社長を超える財力を得ていたかもしれない。

しかし実際は違った。どれほどの才能があっても、どれだけフリ(pretend)をしても、ギジョンから漂うのは“半地下の臭い”なのです。

そしてそのことを、ギジョン自身もよくよくわかっているのだな、と感じるシーンがありました。

留守中の大豪邸で好き勝手をするキム一家は、他人の家であるにも関わらず「今は自分たちの家だ」という勘違い発言をしたり、兄・ギウに至っても「ダヘが大学生になったら結婚する」などとまるで現実味のない話を真面目に語ったりします。

しかしそんな中、ギジョンだけが冷静です。兄・ギウから「ここに住むならどの部屋を使う?」と問われた際も「わからない。住んでから考える」とクールに答える。

きっとギジョンはわかっていたんだと思うんです。自分たち家族がこんな大豪邸に住める日など、一生やってくることはないと。

半地下暮らしに染まることもできず、どれだけ豪邸が似合っていてもしょせん偽り。

本来であれば能力が正当に評価されて然るべき資本主義経済において、生まれついた環境で人生が決まってしまう格差社会の矛盾。

その象徴となっているのが、ギジョンの死という結末なのではないかと思うのです。

地下室の男が刃物を持って向かった先は......

そしてもう一つ。ギジョンが致命傷を負う場面で気になったことがあります。

私はこの映画をまだ1度しか観ておらず、記憶があやふやではあるのですが、ガーデンパーティーに乱入した“地下室の男”が刃物を持って向かった先って...

実はギジョンではなくダソンだった気がしませんか?

思うに、ダソンは“地下室の男”の存在を知っていました。劇中で明言されてはいませんが、所々で披露されるエピソードが「知っている」と暗に伝えてきます。

ダソンは地下室の男と深夜に一度出くわしている。元・家政婦のムングァンとは、彼女が出て行った後もメールのやりとりをしている。さらにはパク一家がキャンプに出かけて不在となることをわざわざムングアンに連絡し、大雨が降っているのにキャンプから戻ろうとしなかった。(地下室の男の「ために?」または「せいで?」)

そして地下室の男の方も、ダソンが自分の存在に気づいていることを知っていますよね。「カブスカウトに通っているから、ダソンならメッセージに気づくかもしれない」と言って、電球の灯を使って必死にSOSを送り続けているわけなので。

しかしダソンはSOSを解読していながら無視した。

もちろんダソンも悪意を持って積極的に無視したわけではない。ただ地下室の住人が恐ろしく、関わりたくなくて、存在を抹殺しただけです。

けれど...ダソンのこの意識と行動こそが、格差社会の残酷さそのもの のように思えるのです。

ダソンは小学生にして、すでに富裕層と半地下の家族、そして地下の住人を明確に区別しています。自分たちとは“異なる存在”だと思っている。だからこそ悪意なく存在を抹殺できてしまうんですよね。

同じ人間だと思っていないから。

地下の存在に気づきもしない富裕層一家。深く考えずに貧富の差で人を区別し、悪気なく臭いものに蓋をする親。そしてそんな親の元で、格差の存在に気づいていながら見て見ぬフリをする子どもが育っているという現実...。

半地下の家族の家には「知足安分」の書が掲げられていましたよね。

知足安分:高望みをせず、自分の境遇に満足すること。「知足」は足るを知るという意。「安分」は自分の境遇・身分に満足すること。

地下室の男も半地下の家族も、最初は貧しくも幸せに暮らしていました。

富裕層一家から区別されたり見捨てられることさえなければ、妬んだり恨んだり、挙げ句の果てには殺意を抱くことなんてなかったはずなんです。

数々の考察記事を拝読していると、「パラサイトは単なる格差批判の映画ではない」という感想・意見を多く目にします。

そう、貧しいこと自体は決して不幸ではないのです。そして、努力して結果を出した者が富を得る資本主義経済自体も、決して悪ではない。

けれども経済格差が固定し、努力や能力ではなく生まれた環境で人生が決まってしまう世の中を放置し続けたら。人が人を区別し、見捨てることが当たり前になってしまったら...。

映画・パラサイトが迎えた悲惨な結末が、きっと世界中の至る所で現実化してしまう。

この映画を通じてポン・ジュノ監督は、人々の心に知らず知らず根付いている「格差への無関心」に対し警鐘を鳴らしたのではないでしょうか。

映画を観た一人ひとりが格差社会を是正することは難しくても、区別をやめ、関心を抱くことならできる。

それだけでも、きっと大きな一歩。

パク家が地下の住人を区別せず、少なくとも関心さえ抱いていれば...美しく賢いギジョンは死ななくて済んだかもしれないから。

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考察②の予告
▶︎どんなに憧れ真似をしても、結局はミニョクになれない兄・ギウ
▶︎パラサイト計画は最初から失敗だった?

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