見出し画像

利己的に生きることへの怖れ

自身の行動の決断に他者の意思が介在する、なんてことを良く経験します。

例えば、人から何かを言われたり、もしくはこういう反応をするだろうなという推測だったりを判断材料に意思決定を行うといったようなことです。その場合に、「あなたが言ったから」、「本当はしたくないんだけど」といったような前置きから始めることがあると思います。

この前置きは他者を慮るためや、主張の際に余計な感情を煽らないためには確かに必要です。ただ、それがあまりにも便利であるが故に最早それをいっておけば大丈夫、といった傲慢な印象すら感じてしまいます。

そのような言葉を言おうが言うまいが、結局受け手がどう感じるかはそれぞれです。「これをしたから喜んでくれるはずだ」といった見せかけの利他主義は、所望の反応が相手から返ってくるからこそ成り立つものでしかなく、望まない返しをされて「あなたのためなのに」と怒るのは全くのお門違いです。

どんな前置きをしようと、その行動の是非が変わるわけもなく、他者を慮ることは自身の行為の正当性を補助するために働くとは限りません。

そういったことを踏まえて考えてみれば、どのみち結果は同じならば最早そんな言葉を前置きで使う必要なんてあるんでしょうか?

もちろん、最初にいったように余計な感情を煽らないためには必要かもしれませんが、それだけが理由にしてはそのような前置きがあまりに多く見られる気がします。

そうなってしまうのは、利己的に生きてはならないといったような風潮が蔓延しているが故に、多くの人が利己的に生きることに怖れを抱いているからだと考えています。

「利己的」ということに対して何となく悪いイメージを持っている人は多いのではないでしょうか。確かに、行き過ぎた利己主義は他者を蹴落とし不幸にしてしまうこともあるでしょう。ゼロサムゲームにおいてはそれがどうしようもない事実です。

そういったイメージが先行するあまりに「利己的に生きるということは悪」という思想が知らぬ間に人々の深いところまで入り込んでしまっているなと感じます。

その結果、利己的に生きるということに無意識に引け目を感じてしまい、それが冒頭から述べているような「自身の行動に前置きをして予防線を張る」ことに繋がってしまっていると考えます。

しかし、それは偏りすぎな考え方なんじゃないかと思います。自身の利益を追求してこそ他者を幸福にできることもあるのではないでしょうか。アートの分野なんかではそれが顕著なのかなと思います。

それに、より広く考えればゼロサムゲームだって、資本主義というやり方が結果的には多くの人を幸福にすると少なくとも現時点では考えられているからこそ出来上がっているものです。

「誰かのために生きる」ということは確かに尊いことだし、昔は貧しさなどから利己的な考えかたが問題を起こしやすい環境だったのかもしれません。ただ、多くの人が豊かになった現代においては、そのような考え方以外も今以上に認められて良いのではないかと考えます。

利己的に生きることを怖れず、貪欲に自己実現を求めて生きれば、結果的に人に良い影響を与えられようになると信じています。

最後までご覧になっていただきありがとうございました! 少しでもいいなと思っていただけた方はスキやフォローしていただければ大変励みになります! よければ他のSNSなどもご覧になってみてくださいね:)