Yuei

真面目になりたい不真面目人間

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  • 不真面目人間の奮闘記

    不真面目な人間が真面目になるために価値観や考えを語ります。自分の考えをただ述べるだけでなく読んでくださった方に何かしらの価値を提供できるよう努めています。

  • 生活改善備忘録

    不真面目な人間が真面目に生きるために生活や環境を変えていった軌跡を文章として残したものです。即日役立つ(かもしれない)内容ですので是非読んでやってください!

最近の記事

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正しさの視点を広く持つ

「それは正論かもしれないけど・・・」、「正論の暴力を振りかざすな!」 このように、「正論」という言葉はネガティブな意味合いを持って使われることが多いと思います。その中身はさておき、僕はどちらかというと正論という言葉の使われ方自体に違和感を覚えることがあります。 先ほどの例で言えば、相手の意見に否定的な感情を持っている、つまりは自身の中で正しいとは認めていないにも関わらず当人がそれを正論と呼ぶことってなんだか矛盾しているような気がして気持ち悪いと僕は感じます。 これは僕だ

    • 忘我の境を追い求める

      我を忘れて何かに取り組む経験をしたことってあるでしょうか。 そういう状態をゾーンに入るっていうらしいですね。好きなことに夢中になっていて、気が付いたら時間が経っていたとか、タスクを始めたら集中して一気に終わらせられたとか、そういうやつです。 引用させて頂いた記事には、ゾーンに入るために大事なことが書かれています。環境を整えるとか、期限を設定するとか色々あるようですね。仕事でも趣味でもそうですが、どうせ何かに取り組むならばこのような手法を活用して最大限の成果を上げていきたい

      • 理解のための文章化

        「人に何かを説明するためには、ただ理解するより何倍もそのことを理解する必要がある」ということをよく言われます。 実際、このことを痛感させられる経験って結構多くて、塾講師のアルバイトなんかをしてた時にはいつもこの言葉を心に留めていました。 ただ、対話形式だとニュアンスとかの雰囲気で伝えられることもあるので便利だったりします。(そこはちゃんとやれよって話ですが) これは口語の強みでもありますが、同時に弱みでもあると思います。 文章という形ではどうでしょうか。口語にも共通する

        • 信じることは難しい

          口論などにおいてしばしば「そういう意味で言ってるんじゃない!」という言い合いが発生することがあると思います。 言葉をどう受け取るかは人それぞれなので、こういったことが起きてしまうことは十分に注意していても完全に避けることは難しいと思います。そのために、人にものを話すときには前提を共有することや、余計な感情を煽らないための工夫が必要となってくるのはよく知られていることだと思います。 前回の記事で、人の潜在意識にある悪意に目を向けるだけでなく、顕在化している善意にも目を向けて

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        正しさの視点を広く持つ

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        記事

          潜在的悪意のいなし方

          「その行動の背景にはこんな無意識の考えが隠れているぞ!」というようなことを人から言われたり、後から行動の真意に自分で気が付いたりしてハッとした経験はないでしょうか?このようなことを解明するための学問として深層心理学があります。 深層心理学(しんそうしんりがく、独: Tiefenpsychologie、英: depth psychology)は、無意識に想定される構造や心的過程によって、人間の行動や経験の意味を解釈し、解明しようとする、心理学及び臨床心理学における様々な理論の

          潜在的悪意のいなし方

          エゴを認めて許容する

          「人間のあらゆる行いは所詮エゴに過ぎない」という考え方があります。 例えば、人に優しくしたり愛情を注いだりするような行為は一見すれば利他的な行いですが、無意識で見返りを求めていたり、承認欲求を満たそうとしているかもしれないことから、それらは結局自分のためだと考えることが出来ます。 個人的にその考えには同意していて、少なくとも僕自身は自分に利があることしか行動できません。僕はそれを悪いことだとは思わないのですが、そのエゴという醜さを指摘されたり、そうなってしまうことを怖れる

          エゴを認めて許容する

          利己的に生きることへの怖れ

          自身の行動の決断に他者の意思が介在する、なんてことを良く経験します。 例えば、人から何かを言われたり、もしくはこういう反応をするだろうなという推測だったりを判断材料に意思決定を行うといったようなことです。その場合に、「あなたが言ったから」、「本当はしたくないんだけど」といったような前置きから始めることがあると思います。 この前置きは他者を慮るためや、主張の際に余計な感情を煽らないためには確かに必要です。ただ、それがあまりにも便利であるが故に最早それをいっておけば大丈夫、と

          利己的に生きることへの怖れ

          昼食をカロリーメイトばかりにしている理由

          今年に入ったあたりから、昼ごはんにカロリーメイトばかりを食べ続けています。 きっかけは非常に怠惰なもので、毎日お昼ご飯を考えるのがめんどくさくなったというのが主な理由です。 昼食に何を食べるか悩むことって冷静に考えると、3日に1回悩んだとして年間で100回以上も悩むことになってしまうのだから意外と侮れません。 というわけで、僕は日常にそこそこの頻度で発生することが予期される煩わしさから生涯解放されたいという思いから、あらかじめ食べるものを決めてしまおうと考えました。

          昼食をカロリーメイトばかりにしている理由

          善くあるための条件

          幼いころから劣等感を覚えることが多く、それを埋めようとして苦しむ経験を未だに繰り返している。 幼少時に所属していたコミュニティではマリオなどの電子ゲームが流行っており、色々なゲームの話で盛り上がることが多かったのだが、自分が持っていないゲームの話をしている間には「みんなが当たり前に持っているものを持っていない」という他者との比較から劣等感を抱くことがあった。それを解決するために、相手に合わせて自分も持っているかのように平気で嘘を吐いていたことを今でも覚えている。 今ではそ

          善くあるための条件

          ゼルダの伝説から学ぶ「人のココロの形」

          「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」の話をさせてください。新たにムジュラの仮面を知った方に少しでも魅力が伝わったり、すでにプレイしたことのある方にも共感してもらえたりすれば嬉しいです。以下、Wikipediaの引用です。 『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』(ゼルダのでんせつ ムジュラのかめん、英題:The Legend of Zelda: Majora's Mask)は、任天堂より2000年4月27日に発売されたNINTENDO64用3DアクションRPG[注釈 1]。『ゼルダの伝

          ゼルダの伝説から学ぶ「人のココロの形」

          理解の尺度は言語にある

          「言語化出来ないと理解したとは言えない」という主張がある。 このような主張が見られるシーンとして、例えばプレゼンの質疑応答の際に回答に詰まった際に上手く答えられないときなどがあると思う。僕自身もそのような経験が多く、書いているとその時の経験が想起されてお腹が痛くなりそうだ。 個人的な見解としては、この主張を正しいと考えている。ただし、上に書いただけの主張では少し情報が欠損していて、正確には「言語が意思疎通の手段として主流である以上、自らの理解したイメージを言語化して伝えら

          理解の尺度は言語にある

          悪意という隣人

          疑うこと、疑われることに嫌気がさすことがある。 昨今、発信力のある人物がSNSなどの不特定多数の目につく場所で何らかの主張を行った場合、当人が込めた意図を差し置いて受け手の解釈により様々な形に批評されるシーンが良く見受けられる。その言葉は特定の誰かを傷つけている、表現が差別的だ、などとそれらの批評自体が新たな火種となりやがては当人の手の届かない範囲にまで論争は拡大してしまうこともある。 そのような論争を回避するために、「前提を共有する」という手法が存在する。争いの火種とな

          悪意という隣人

          言葉との付き合い方

          断定的で余地のない必要最低限な言葉を使いたい。 言葉に余裕を生むために飾ることは、聞き手や読み手、あるいは第三者に発言の責任を分散させ暗黙のうちに押し付ける不誠実なことだという認識がある。実際には、不要な誤解を排除するための手段として有効であるため必要なことであるとは思う。 例えば、「恐縮ですが」という言葉に対してまるでアレルギーのような嫌悪感がある。この言葉はビジネスシーンなどでよく使われるもので、大抵は「私はあなたに配慮している」と誠意を示すために使われることが普通だ

          言葉との付き合い方

          線を引いて生きる

          生きる意味を考えたことの1度や2度はあると思う。 時期としては、中学生になってしばらく経ったあたりが多いのではないだろうか。新たな出会いや環境、勉強の多角化などから視野が少しだけ広がり心身の成長とともに彼らの中では世界が急速に変化していく。その変化に従って自分という存在は時折不確かになり、幸か不幸かそこに問いを投げるだけの知能も発達する。その結果、生きる意味を考えることになる。 誰にとっても自分とは特別で、意味のある存在でなければならない。しかし、現実はそう上手くいかず、

          線を引いて生きる

          名前に願望を込める

          Yueiという名前で活動することにした。名前というのはその人の第一印象に深く関わる。単純に字面から判断されることもあれば、似た名前の人物の影響などもあるだろう。印象が与える効果は大きいことを知っているから、そういう意味で名前は大事だ。 名前を付けるということは、対象に「こうあって欲しい」という願望を込めることだと思っている。親が子に名前を付ける時が代表的な例だ。 自分に対しては「Yu」から発音する名前を付けることにこだわりがある。この発音にはどことなく優しい印象を持ってい

          名前に願望を込める

          コンテンツとして己を語る

          いわゆるコンテンツが好きだ。感情を表現する音楽が好きだし、個性豊かな実況動画が好きだし、独自の価値観をまとめたエッセイが好きだ。それがどんなものであれ、意図的に何かの不利益を望んだものでない限り、ジャンルを問わず尊重する。インターネットにはそのようなコンテンツが溢れていて退屈しない。 好きが加速した結果、クリエイターに憧れるようになった。自分もそのようなコンテンツを作成して、多くの人に影響を与えられればと思う。ふと、何故こんなにもクリエイターに憧れるかを考えたので言語化する

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