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コンテンツとして己を語る

いわゆるコンテンツが好きだ。感情を表現する音楽が好きだし、個性豊かな実況動画が好きだし、独自の価値観をまとめたエッセイが好きだ。それがどんなものであれ、意図的に何かの不利益を望んだものでない限り、ジャンルを問わず尊重する。インターネットにはそのようなコンテンツが溢れていて退屈しない。

好きが加速した結果、クリエイターに憧れるようになった。自分もそのようなコンテンツを作成して、多くの人に影響を与えられればと思う。ふと、何故こんなにもクリエイターに憧れるかを考えたので言語化する。

結論から言えば、コンテンツ制作によって自己実現の達成が可能であるからだと考えた。順を追って説明していく。

前提として、人は自己実現を達成することに喜びを覚える生き物であるという主張を認める。心理学者マズローは、人は自分らしくありたいという欲求、すなわち自己実現欲求を持つということを主張した。その主張が示す通り、僕もまた自分らしくありたいと考える。

自己実現の手段は多岐にわたる。自分らしい服に身を包む、絵を描く、好きな人と過ごす、望んだキャリアを歩むなど人それぞれの形がある。

では、コンテンツ制作は僕にとって自己実現の手段に成りえるだろうか?
以下、二点にわたって考察を述べる。

コンテンツ制作は自己実現の手段に適しているか

創作物には作者の価値観が背景として良くも悪くも現れると考える。背景ばかりが重視されることは考え物だが、作品と作者を完全に切り離すことなど出来ない。意識的にせよ、無意識的にせよ、創作物には自身が反映されるものだ。

表面上では、創作物は独立した存在かもしれない。しかし、何故そのようなものを作ったのか、どのように作ったのか、何を使ったのか、など細部にまで巡らせていけば必ず作者の思想が反映されている。

例えば、かの有名なモナリザには「自然界に線は存在しない」という写実的観点のもとにスフマートという輪郭をぼかす技法が取り入れられている。この技法では絵の具を何層にも上塗りするため相当な時間がかかるにも関わらず、作者のレオナルドは積極的に取り入れている。

このことから、レオナルドが事象を正確に捉えようとする人物であること、そしてそれを表現するためには一切の妥協を許さない飽くなき探求心を持つことが伺える。

絵画に関しては、謎に包まれている場合が多く事実をもとにしたことしかこの場では取り上げられないが、レオナルド自身とモナリザの関係については今日においても考察が続けられている。このように、創作物には作者の血潮が静かに流れているのだ。

コンテンツも創作物の一つであるから、例にもれずその限りである。したがって、コンテンツ制作は自己実現のための手段として十分であると考える。

なぜ手段としてコンテンツ制作を選ぶのか

僕は会話の中で自分のことを話すのが苦手だ。理由として、過去を会話の中で語るのに嫌悪感があること、話すような大それた内容がないということ、そもそも会話があまり上手でないことが考えられる。

会話は双方向性を持ったコミュニケーションである。その中で必要以上に自分を語りすぎることは、双方向性を悪用しているに他ならないと考える。

多少ならば良いのだろう。だが、僕にとっては双方向性という強制力を利用して、承認欲求を満たすことは悪だという認識がある。ゆえに、会話の中で自分語りを行うことに過度な嫌悪感を催してしまう。

だが、コンテンツの中でなら己を語ることは許されると僕は考える。コンテンツに双方向性のやり取りは存在しない。単方向性のやり取りを各自で行うのみだ。つまり、見たいものだけ見て、必要だと思うことだけ意識してくれればよいのだ。

この文章を読んでくれる人がいたとして、必要ないなら読むことを途中でやめればよいし、幸い何か得るものがあったとしても僕自身に得はない。そのような関係性が心地よいとさえ思う。

だからこそ、コンテンツを作り誰かに見てもらうということは僕にとって都合のよい自己実現を達成する手段といえる。したがって、僕は自己実現のための手段としてコンテンツ制作を選ぶ。

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以上の二点から、コンテンツ制作によって自己実現の達成が可能であると考える。

クリエイターの方々が好きだ。コンテンツという窮屈な箱の中で自由に羽ばたく姿に魅了される。僕もそうなりたいと思う。

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