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エゴを認めて許容する

「人間のあらゆる行いは所詮エゴに過ぎない」という考え方があります。

例えば、人に優しくしたり愛情を注いだりするような行為は一見すれば利他的な行いですが、無意識で見返りを求めていたり、承認欲求を満たそうとしているかもしれないことから、それらは結局自分のためだと考えることが出来ます。

個人的にその考えには同意していて、少なくとも僕自身は自分に利があることしか行動できません。僕はそれを悪いことだとは思わないのですが、そのエゴという醜さを指摘されたり、そうなってしまうことを怖れるあまり行動がとれなくなってしまうようなケースを見受けることがあります。

まず、そのように他者の意見を受け入れたり、自身を俯瞰的に捉えられることはとても良いことだと思います。しかし、極論を言えばエゴだから何なのだろうかというのが正直な僕の意見です。何故なら、生物はみな意識的にせよ無意識的にせよ、生というエゴを選んで生きているという前提があると考えるからです。

例えば、生命活動を行うために私たちは食事という形で多くの命を糧にして生きています。つまり、我々人間は生きるためという極めて純粋なエゴを日々許容して生きているのです。もちろん、その部分が正しいのかと考える生き方もありますが、その考えを持つ人だって生きているという以上何かしらの形で栄養を摂取しています。

このように、もしそれが不本意であったとしても我々が生命活動を続けているのは自らが生きるために利己的な選択を取っているからです。その前提がある中で自らのエゴに根本的な部分で引け目を感じるというのはおかしくはないでしょうか。

我々には幸福を追求するための権利があり、誰かの自由を侵害しない限りはそれを最大限に尊重されてもよいと僕は考えます。ありがたいことに、日本ではそれが憲法として保障されています。

自身の幸福のために利己的なことを追求していけば、悪影響を与える存在になってしまうこともあるでしょう。それが他者の自由を奪ってしまうものであるならば、ある程度の制限を持って生きなければなりません。しかし、それが根源的な欲求であるならば、自らのエゴを非難されることへの怖れなどから、その存在自体を否定し幸福の追求を完全にやめてしまうことは間違っていると思います。

自分本位で生きていくことは、他者を傷つけてしまう、もしくは傷つけられてしまうというリスクを伴います。傷ついたのは相手であっても、その事実で自らの心が痛むことだってあります。その痛みに対する怖れがリスクとなって、行動に対する枷となってしまうのかもしれません。

しかし、そのようなリスクのために自分のやりたいことを蔑ろにしてしまっては、もはや何のために生きているのでしょうか?

もちろん、それらのリスクを可能な限り低減する生き方をすることが大事ですが、多様な生物が共に生きている以上それらを完全に無くすのは極めて難しいと思います。

エゴによる行動のために、一時的には誰かを傷つけてしまうかもしれません。しかし、その行動が自らの正義や倫理観に則したものであれば、結果的には傷つけた分よりも多くの人を幸福にできると僕は信じています。

まとめると「エゴを怖れず幸福を追求しましょう!」ということなんですが、その言い方では僕にとっては仰々しく感じてしまいます。僕自身の等身大の言葉で言えば「自分に素直になってもいい」というのがとてもしっくりきます。

自分に素直に生きたことで不幸を招いてしまったとしても、その原因が自分自身にあるとは限らず、今いるその環境がたまたま不幸を招いてしまう構造になっているだけ、ということが実際のところ大半だと思います。

だからこそ、そういった場合には一旦視野を広げて自分自身とそれを取り巻く環境を見つめ直すのがよいのではないかと考えます。

もし環境を変えられそうなら思い切って変えてみたり、それが叶わなかったとしても諦めるのではなく代替案を考えたり、折り合いをつけていくための行動をするほうが僕はいいなと思います。

自分自身のエゴや醜さを認めて許容し、それでもなお行動し続けることが自分らしく生きるということではないでしょうか。

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