見出し画像

言葉との付き合い方

断定的で余地のない必要最低限な言葉を使いたい。

言葉に余裕を生むために飾ることは、聞き手や読み手、あるいは第三者に発言の責任を分散させ暗黙のうちに押し付ける不誠実なことだという認識がある。実際には、不要な誤解を排除するための手段として有効であるため必要なことであるとは思う。

例えば、「恐縮ですが」という言葉に対してまるでアレルギーのような嫌悪感がある。この言葉はビジネスシーンなどでよく使われるもので、大抵は「私はあなたに配慮している」と誠意を示すために使われることが普通だと思う。

しかし、この言葉には裏を返せば「多少失礼があったとしても許してほしい」という投げやりな妥協や、「こういったんだから怒らないよね?」と相手の無意識に釘を刺すような意味合いを含ませられてしまう問題がある。そのような解釈をしてしまうことのほうがよっぽどの問題なのかもしれないが、それが原因でこのような言葉の表現にはとても気持ちが悪い印象を受ける。似たような例に「本当は言いたくないんだけど」と前置きする言葉なども挙げられる。

発言の責任から逃げようとする意志が垣間見えるような言葉を自分で使うたび、他人から見聞きするたびに「そう思うならやるなよ」と反射的に感じる。直接的ならまだしも、言葉の背景から感じ取れることに気味の悪さを感じているんだと思う。

誰かに咎められてもいいように言葉を補填することはずるいと感じる。明確な意思がある場合に言葉によって自分を誤魔化すようなことをしたくはない。背景としては客観的事実や、大勢の意思を語ることであったとしても、それを主張することを決断し行動したのは他でもなく主張を行う自分自身ただ一人だけということを忘れたくない。

あくまで僕自身がそう感じるということであり、他者の言動を制限したいという意図はない。などということ自体、言論の自由を迫害するのかという言及に対して「そんなつもりで言っていない」という予防線になってしまう。このようなことは言っていけばきりがない。この文章全体にもたくさんあるし、そもそもこれを書こうとすること自体「私は気づいていますからね」という意思表明であることを完全に否定することは不可能である。

何故こんなにもアレルギーのように責任を分散させる振る舞いを嫌うのかを言えば、それは他でもない自分自身がそのような言葉を多用してしまう人間であるからだ。私事になるが、生まれた時から劣等感を感じることが多く、ついそのような言葉で保険を掛けることにより自己防衛をしてしまう。自身の至らなさによる問題を他者の配慮で補おうとしてしまうことは良くないと思う。自分に厳しいと言えば聞こえはいいのだが、それにしてもあまりに多用し過ぎてしまう傾向にあると日頃から感じているため、いつも反省している。

ここで問題の根本は劣等感を抱えてしまっていることであるが、劣等感に限らずいわゆるコンプレックスを払拭することは難しい。劣等感を解消するための一番の解決策は「人の目を気にしない」ということにあると考えるが、それを実際にできる人は限りなく少ないと思う。このように、コンプレックスを直接的なアプローチで改善しようとすることは上手くいかないことが多いのは自明だと思う。

だからこそ、僕は自分自身が抱えるコンプレックスに対して、直接的に治すことは難しくとも、まずは言葉から正していくことを意識している。「言葉に気を付けなさい」とマザーテレサが言ったように、思想も言葉も振る舞いも、深い所ではつながっていると思う。故に自身の振る舞いは言葉からも正していくことが出来ると信じている。その気持ちが強く出過ぎてしまうことが、今のようなアレルギー反応を引き起こしているのだと思う。

ここまで言葉の使い方、使われ方に対する懸念を書き連ねていったが、言葉というものが意図しない意味合いを持ってしまう性質を有するという事実からは逃れられない。結局、言語がコミュニケーションの主流として広く使われている以上、他人を程よく許容し、自身も配慮を欠かさずに言葉とうまく付き合っていくしかない。

この「うまく付き合っていく」ということは、何においても難しい。柔軟な思想を持ち続けるために必要なことは何だろうか。受け入れること、聞くこと、共感すること、自分でもやってみること、メタ認知力を鍛えること。様々なアプローチがあるだろうが、結局大事なことは「他人を他人と割り切ること」ではないかと考えている。

スティーブン・R・コヴィー著の「7つの習慣」では、影響の輪と関心の輪という考え方について述べられている。

ざっくり説明すると、人間一人が影響を与えられる範囲には限界があるのだから、それより広い事柄に関心を寄せて無駄なエネルギーを消費してしまうことはやめて、自分が影響を与えられる範囲に集中したほうがいい、ということを述べている。

「うまく付き合っていく」ためにはこれらの輪のモデルが助けになると考えている。今回の場合で言えば、他人が何を言おうが、それはあくまでその人の考えであると割り切り、仮に明確な悪意を感じたとしても軽く受け流せる懐の広さを持っておけば良いのだ。他人を変えることはできないし、変える必要もない。そっけなく冷たいかもしれないが、多様性を認めるとはそのようなことを指していると僕は捉えている。

狡猾さを捨てて、正々堂々と生きていきたい。

最後までご覧になっていただきありがとうございました! 少しでもいいなと思っていただけた方はスキやフォローしていただければ大変励みになります! よければ他のSNSなどもご覧になってみてくださいね:)