なんでもないエッセイを書いてみる
なんでもないエッセイを書いてみる。自分の身も切らず人も売らないやつ。
*
朝起きると肩のあたりに痛みが走った。先週から手術の執刀が立て込んでいたからか、右の肩甲骨のあたりに鈍痛がある。痛み止めを飲んで、老人のようで恥ずかしいのだが湿布を貼って今日も手術室へと向かった。
手術室で若手医師と看護師に解説しながら執刀をしていて、ふと気づいた。ここには自分より若い人間しかいない。ということは、今行っている医療行為の全責任は自分に、肩の痛い自分にあるわけだ。そういう状況には、もうとっくに慣れた。重すぎる責任、人の命という責任を両肩に背負って、メスを持つ。かれこれ10年以上は続けてきた。
メスで切る。血が出る。電気メスで焼く。最後に縫う。それだけで手術は終わる。手はまるでダンスのように勝手に動く。もともと器用な方ではなかったはずだが、いろんな外科医を見ていると自分より器用な人間はそうそう見ない。そのことに気づいてからは、さらに業界全体への責任のようなものを感じるようになった。
外科医は、続けるか辞めるかしかない。60歳になったらとてもではないが続けられない。それまであと15年、続けるのだろうか、と思うことはある。この事項を検討するとき、僕はいつも他人事のような気分になる。きっと重大すぎて外力にーーたとえば家族の介護や自分の病気のようなーーー決めてもらいたいと思っている。
もし辞めたら、と夢想する。もし辞めたら、手術の無い毎日が待っている。大声で罵倒されることも、ギリギリと精神を詰められることも、どこにも居場所がなく消えたくなるようなことも、もう無くなるのだ。一歩誤れば地雷を踏み抜く日々が終わるのだ。
きっと心には安寧が訪れ、腰痛も肩の痛みもなくなり、暴飲暴食も(たぶん)減り、家族との時間も増やせる。でも、一方で僕は思う。抜け殻のようになってしまうのではないか。業火に焼かれ続けたこの脳は、メスを置くと動きを止めてしまうのではないか。何も無い日々が待っているのではないか。
そう思うと、辞めるなんて選べない。でも、いつまで続けられるのだろうとも思う。シーソーのように行ったり来たり、これから15年続けるのかも知れない。メスを置いた友たちに聞いて回りたい。怖くなかったの、と。
*
結局は、自分の話になった。読み物として面白いのかどうかよくわからない。エッセイっぽくもない、こりゃただの日記だ。「強い刺激を毎日浴び続けることで閾値が上がりきった男の話」みたいなそれっぽいタイトルをつければそれっぽくなるのかもしれないけれどね。