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外科医がメスを擱くとき [5通目 さーたり・中山交換日記]

さーたり先生からのお返事(そもそも私は外科医なのか[4通目 さーたり・中山交換日記])を拝読してはや2週間。なかなかお返事がまとまらぬ中、日々の緊急手術に追われていた今日このごろでございます。

どうにもこの外科医稼業はいけません。ひとりでも重い病状の方が来ると数日が吹き飛び、自分の体調が激変し、すべての予定していた仕事もどこへやら。なにも考えられなくなりますね。


とにもかくにも、さーたり先生のこの言葉が重くのしかかります。

はやく「外科医」になりたい。

先生は3人の出産・育児という、代替不可能な激務をやってこられた。その過程で、メスを置いたり持ったりしたのですね。

他方で私は、遅い結婚をしたこともあり、未だ育児をしたことがありません。きっと、外科医に没頭できるという意味では、羨まれるようなこの13年ちょっとの医歴を送ってきたのでしょう。なにせずーっと好きな仕事を好きなだけ、してきたのです。

そんな私ですが、一年間だけメスを持たなかったことがあります。

もう二年も前の話になります。

私は京都大学の修士課程(いわゆるMPH: Master of Public Healthを取るやつです)に通うため、臨床医を一旦中断して京都に学生として住んだのでした。

恐怖がなかったわけではありません。一度置いたメスはもう持てないのではないか。そんな気持ちのなか、私は福島から京都へと引っ越しをしました。

ちょうどその頃、大きな喪失体験がありました。妹分、兄貴分と呼び合っていた友人を見送ったのです。色んな感情の渦に巻き込まれており、「メスをいったん置く」ことへのなんとない切なさは消しとんでしまったのです。

失意のなか移り住んだ京都で、私は実に一年間、一度も白衣を着ませんでした。メスはおろか、白衣も着なかったのです。

学生生活は、本二冊の執筆や小説執筆もしながらでしたのでそれなりに多忙なものになりました。だからか、

「あかん、オペや!オペがしたいんや!」

というような気持ちになることはありませんでした。

それからまた福島に戻り、生きている間はほぼ病院にいるような生活に身を投じましたが、あっさりと元の外科医に戻りました。「自転車と同じ」などと言ったら怒られそうですが、そういう感触だったのです。

翻って、私はいつまで外科医をやるのでしょう。生業として、つまりパンのためにやる仕事という意味では、外科医という仕事はあまりに心身・家庭への影響が大きく、どれくらい続けられるかはわかりません。朝7時から夜19時まで病院で働き、土日も午前中は必ず出勤し、さらに徹夜業務が月に数回あり、待機番で月5日は夜中に呼ばれる恐怖とともに寝ています。非医療者の妻からは「狂った業界」と言われています。手放してしまえば業務時間は半分になり、年収は増えるのですから、よほどまともな頭ではないのでしょう。

ですが、「メスを奮い、人を切って癒やす」という唯一無二の価値はそんなものでは測れません。この価値に身を焦がされ、日常的に起こる危機に脳を焼かれた我々は、そう簡単に外科医を辞められないような気もしています。「クライシス・ジャンキー」と私は呼んでいます。

ところが外科医の末路を見ていると、私の知るものは悲惨な話ばかり。あんな幕引きなら、いっそ全盛のうちに、とよぎったこともあります。

揺れ動く中堅(そして中年)外科医の心。

なんだかんだ言って、辞めないな。オペ好きじゃし。なぞの結論でした。


さて、次はさーたり先生にお伺いしたい。

次はどんな作品を作りたいのですか?

ファンの多い先生ですから、きっともう出版社となにか企図なさっているのでしょう。ま、言える範囲で言えないこともちょいちょいお願いいたします。

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