見出し画像

<書評>“Behind the SLVER FERN, Playing rugby for New Zealand”「シルバーファーンの裏側で、NZラグビーの歴史」その8

 2009年は、ダニエル・カーターがサブバティカルを取ってフランスに行ったが、足首を怪我して戻ってきた。またリッチー・マコウも休養を取っていた。そのため、2人が不在となったダニーデンのフランス戦で負けてしまう。

 さらに、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズにシリーズで勝ち越して自信を持った南アフリカに、ブルームフォンティーン、ダーバン、ハミルトンと3連敗してしまう。それは、監督ピーター・デイヴィリアスのキック&チェイス戦法にやられたもので、この対応を考えることが重要になった。その後、2009年遠征最後のフランス戦の勝利によって、光明が得られる。

 当時のオールブラックスの両WTBは、トライゲッターのジョー・ロコゾコとシティヴェニ・シビヴァツの2人だったが、両人ともにハイボールを数回落とすミスをしていた。これに対して、コリー・ジェーンとリチャード・カフイは、ハイボールに強いバックスリーとして頭角を現す。

 南アフリカは、SHフーリー・デュプレアがピンポイントのキックをし、これをスピードあるWTBブライアン・ハバナがチェイスする戦法を屈指していた。また、両LOには、ヴィクター・マットフィールドとバッキース・ボタ、NO.8にはピエール・スピース、HOにはジョン・スミットと、FWに優れた選手を揃えていた。

 2010年トライネーションズの、ソウェトで10万人の観客を集めた南アフリカ戦では、最後にオールブラックスのCTBマア・ノヌーがラインブレイクし、それをFBイズラエル・ダグにつないで勝利のトライを挙げた。このゲームでは、近年では強く印象の残るものとなった。また、この頃から、オールブラックスはメンタルトレーニングを重視してきたが、その成果が反映されたゲームとなった。

 またこの年、怪我が多いリチャード・カフイに代わるようにして、FBイズラエル・ダグとCTBソニービル・ウィリアムスがオールブラックス入りしている。

 オールブラックスは、ブレディスローカップ保持を決めた後、最終となる香港の第4戦の後半で、ダニエル・カーターからSOをスティーヴン・ドナルドに代えた。しかし、ドナルドはゴールキックのミスに加えて、ノーサイド直前のタッチキックをノータッチにすることで、オーストラリアのWTBジェイムズ・オコナーに同点トライ及び勝ち越しのコンバージョンを入れられる屈辱を味わった。その結果、ドナルドはNZにいたくないと思い、2011年RWC以降に英国バースへ移籍することを決めた。

 2011年2月22日、NZのカンタベリーを大地震が襲った。このため、クライストチャーチのランカスターパークは壊滅的な打撃を受け、RWC開催が不可能となった。また、ダニーデンは、新たに屋根付きのスタジアムが建設され、旧来のカリスブルックは取り壊されることとなった。この年に行ったフィジーとのテストマッチが、カリスブルックの最後のゲームとなった。

 RWCのプールマッチの日本戦では、クライストチャーチの地震被害及び3月11日の東日本大震災のために、両チームが黙祷を捧げた。3戦目となるフランス戦では、リッチー・マコウが100キャップを達成した。一方、オーストラリアがプールマッチでアイルランドに負けたため、オールブラックスは準決勝で、南アフリカ対オーストラリアの勝者と対戦することになった。

 プールマッチ最終カナダ戦に備えた練習中に、ダニエル・カーターが股関節を怪我し、チームから離脱した。マコウも足の甲に怪我を抱えていた。カーターの代わりには、コリン・スレードがSOとして先発する。さらに、リザーブとしてアーロン・クルーデンが召集された。しかし、スレードは、次の準々決勝のアルゼンチン戦で怪我をし、カーター同様にチームから離脱した。アルゼンチン戦では、若いクルーデンの負担を避けるため、SHピリ・ウィープがBKのリード及びゴールキッカーを担当し、7PGを入れて勝利した。イズラエル・ダグは、準々決勝を怪我で欠場したが、代わりにプレーしたミルス・ムリアイナが100キャップを達成した。

 オーストラリアは、準々決勝の南アフリカ戦に勝利し、準決勝でオールブラックスと対戦する。オールブラックスは、RWCでは1991年と2003年の準決勝でオーストラリアに負けており、また2011年のトライネーションズは、オーストラリアが優勝していた。しかし、オールブラックスはベストゲームをプレーして、20-6で完勝した。FBイズラエル・ダグから12番CTBマア・ノヌーにつないで取ったトライは、ゲーム唯一のものとなった。一方、オーストラリアのWTBディグビー・イオアネがトライラインに迫った時は、FLジェローム・カイノがトライセービングタックルをした。

 決勝の相手となったフランスは、プールマッチでオールブラックスとトンガに2敗しており、準決勝のウェールズ戦も、ウェールズのFLサム・ウォーバートンが不当なレッドカード(退場)になることで、幸運にも勝ち上がってきたチームだった。
 しかし、決勝のフランスは手強かった。オールブラックスは、ラインアウトのムーブから1番PRトニー・ウッドコクがトライをした。

しかし,SHピリ・ウィープは、ウォームアップで足を痛めてしまったため、PGを外していた。また、SOアーロン・クルーデンも、前半30分で怪我をしてしまい、代わりにスティーヴン・ドナルドが入った。ドナルドは、RWCスコッドから外れたため、地元ワイカト川で白魚釣りをしていた時に、グラハム・ヘンリー監督から連絡が来て、急遽スコッドに入ったのだった。そのドナルドが、2010年香港の名誉挽回となる、ハーフライン近くからのPGを決めて、8-7の優勝に貢献した。

 後半、フランスのキャプテン&FLのティエリー・デュソトワールがトライし、コンバージョンも決めて、8-7の1点差になってからは、オールブラックスは、フランスにPGもDGもさせないように、必死にディフェスした。キャプテンのマコウは、甲を骨折しているのにも関わらず、チームをリードし、勝利を導いた。

 オーストラリアSHジョージ・グレーガンが、2003年RWCでオールブラックスに言った「Four more years(さらに4年)」は、オールブラックスの24年振りのRWC優勝で、別の意味(4年後も優勝)に変わっていた。

 オールブラックスのSHは、プールマッチのトンガ戦でジミー・カウワン、日本戦でアンディ・エリス、フランス戦にピリ・ウィープとローテーションしていた。カーターが負傷離脱した後、チームは皆1%アップして、カーターの分も頑張ろうと誓ったが、ウィープはさらに2~3%アップしてプレーし、優勝に大きく寄与した。

 カナダ戦で、怪我をしていたマコウは休むことにし、カーターがキャプテン代行となる予定だった。カーターが怪我をしたとき、ヘンリー監督は、皆に「対応できる」と説明して動揺させないようにした。この時、ドナルドは、SHのウィープがカーターの代わりにSOも兼任すると見ていた。

 準決勝のオーストラリア戦では、オーストラリアSOのNZ人クエード・クーパーが、キックオフのボールをいきなりインゴールの外まで蹴ってしまったのを見て、オールブラックスは勝利を確信した。

 オールブラックスのバックスリー、コリー・ジェーン、リチャード・カフイ、イズラエル・ダグは、ハイボール処理に良く対応した。それは、準決勝で南アフリカと対戦することを想定して、毎回20分は、3人でハイボール処理を練習していた成果だった。特にハイボールキャッチでは、ジェーンは世界NO.1の選手になっていた。この結果、オーストラリアはキックが通用しないために、後半戦術を変えてきたが、オールブラックスには問題なかった。

 FLジェローム・カイノは、ドナルドと長い友人だったので、彼がスコッド入りしたときは大いに喜んだが、まさか決勝のPGまで決めるとは想像できなかった。また、ドナルド自身は、決勝では後半にカフイと交代するぐらいの気持ちでいたのだが、予想外の早い交代に驚いていた。

 SHウィープが、3回あったPGチャンスを決めていれば、(5+3+3+3)14-0になって、心理的に楽になれたが、それが出来なかった。ウッドコクのトライは、ラインアウトを2つのポッドに分けて、前にいるカイノがダミーでジャンプし、後ろのポッドとの間にスペースを作るムーブだった。これはアシスタントコーチのスティーヴ・ハンセンが考案したものだったが、想定通りになるとハンセンは自信を持っていた。

 マコウは、後半1点差になった時、自分たちよりも負けている側のフランスがより多くのプレッシャーを感じていると考えた。実際、フランスは数回のPGチャンスを失敗していた。オールブラックスは、13番CTBコンラッド・スミス、HOアンドリュウ・ホア、SHアンディ・エリスらが皆、落ち着いてプレーしていた。そして、コンラッド・スミスは、この試合は見ているよりもプレーしている方が楽だと感じていた。交代出場したドナルドは、フィットネスの関係から50分が限界だと思っていたので、試合終了にはギリギリの体力だった。

 マコウは、宿舎のホテル周辺を取り囲んだ多くのNZ国民を見て、喜ばそうと決心し、それを実現した。そして、全国民とともに祝うことができた。NZはまさに一つ(One Team)になっていた。

画像1

2011年RWC決勝。SOスティーヴン・ドナルド

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?