見出し画像

<書評>“Behind the SLVER FERN, Playing rugby for New Zealand”「シルバーファーンの裏側で、NZラグビーの歴史」その7

2003年トライネーションズの最終戦となる、ヨハネスバーグの南アフリカ戦で、26-40とオールブラックスは大敗し、カップを取り損ねた。この後のチームミーティングは、その後のチームを変えるものとなった。アシスタントコーチのウェイン・スミスは、「これから、我々はどうすべきなのか。世界最高のチームを目指すのか、それともただオールブラックスというだけで良いのか」と選手に問いかけた。
それからチームは、歴史、伝統、文化を学び、考えるように変わった。

ヘンリーは、2004年のヨーロッパ遠征から、ローテーション制を導入した。そのBチームとして、イタリア戦でリッチー・マコウが、オールブラックスにデビューし、キャプテンを務めた。
また、スクラムコーチとして、マイク・クロンが就任し、その年のフランスPRを粉砕する成果を挙げた。

2004年の遠征では、最後のバーバリアンズ戦で、バーバリアンズのキャプテンとして、SHジャスティン・マーシャルがプレーした。オールブラックスのSHは、マーシャルと同じマタウラ出身で、父同士が同じ会社で働くジミー・カウワンがプレーした。世代交代の時期だった。

2005年にブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズがNZに来征した。ウェリントンの第2テストマッチでは、ダニエル・カーターが、SOとして歴史上最高と称されるプレーをし、一躍スターに躍り出た。

 この時のチームの合言葉は、「Now focus(今の状況を見ろ)」だった。
 その年のトライネーションズは、ケープタウンの南アフリカ戦に負けたものの、ブレディスローカップを連勝し、ダニーデンの南アフリカとの再戦を迎えた。ここで、デレク・ランデイが作り上げた、カパオパンゴを初披露した。このことは、チーム以外誰も知らないうちに進められた。マオリではないが、キャプテンのタナ・ウマガがリードした。

 ヘンリー監督及びアシスタントコーチのハンセンが始めたことのひとつに、試合後にロッカールームを綺麗にすることがあった。キャプテンのウマガが、最後に点検することが習慣化した。

 2005年末のヨーロッパ遠征では、グラハム・ムーリーがキャプテンの時以来となる、27年振りのグランドスラムを達成した。
 また、デイヴ・ギャラハーが生まれたラメルトンを皆で訪問することを始めた。
 遠征最後のスコットランド戦で、キャプテンのウマガがオールブラックスを引退した。NZのライオンズ戦初戦で、キャプテンのブライアン・オドリスコルがタックルを受けて怪我をし、遠征を離脱したことに対する、タックラーであったウマガへの誹謗中傷が酷かったことが影響した。
 イングランド戦では、イングランドのPRアンドリュウ・シェリダンと、オールブラックスのPRカール・ハイマンの巨人対決が注目された。

 2006年からは、リッチー・マコウがキャプテンに就任した。この年は、強豪国に勝ち続け、2007年RWCに向けて、オールブラックスが優勝候補と言われるようになっていた。

 2007年RWC準々決勝フランス戦のヤンニック・ジョジオンのトライは、明らかにスローフォワードからのものだった。また合計40個ものフランスのペナルティーを、経験の浅いイングランド人レフェリーのウェイン・バーンズは見逃し、さらにルーク・マカリスターを意味不明のシンビンにするなどが、オールブラックスの敗因となった。
 なお、SHバイロン・ケラファーは、ハーフタイムに「この感じは、1999年のようだ」と嫌なものを感じていた。

 ただし、このとき行っていた、Rest(休み)、Reconditioning(調整)、Rotation(ローテーション)は、スーパーラグビーを7~8試合休ませるなどして、選手の体調を考慮したものだったが、敗因としてやり玉に挙げられた。さらに、DGを狙わないことも指摘された。
 一方、ジェリー・コリンズは、Rest(休み)、Reconditioning(調整)、Rotation(ローテーション)を不服として、24番のジャージを着て、別人の名前でクラブのゲームにプレーしていたという。

 2007年RWCの敗退を受けて、グラハム・ヘンリー監督の更迭論が世間で高まった。また、クルセイダーズで好成績を収めたロビー・ディーンズを監督にすべしと、世論は強調した。しかし、NZ協会は、ヘンリー、スミス、ハンセンのチームを2009年まで続投することに決めた。そのため、ディーンズはオーストラリア監督に就任した。このときの状況について、スティーヴ・ハンセンは、ディーンズは既にオーストラリア監督就任の契約を済ませていながら、オールブラックス監督に立候補していたと見ている。オールブラックス監督になれずとも、別チームの監督になるという「保険」に入っていたのだ。

 2008年は、トライネーションズでオーストラリアと南アフリカに苦戦した。ブレディスローカップを保持した後、4年振りのグランドスラムツアーに出発する。この遠征で、LOブラッド・ソーンが、一時戻っていたリーグからオールブラックスに再加入している。

 アイルランドとは、イングランドによるゲーリックフットボール中の大虐殺で歴史に残るクローク・スタジアムで、最初で最後となる試合を行う。また、1978年からの対オールブラックス勝利30周年を祝う、マンスターとのゲームが週半ばに開催された。マンスターには、元オールブラックスWTBダグ・ハウレットの他、ルア・ティポキ、ジェレミー・マニングス、リフィエミ・マフィの計4人のNZ人がいて、ハカを対面から見る経験をした。

 アイルランド、スコットランド、イングランドと勝ち進んだ最後のウェールズ戦は、2005年の対戦でウェールズがハカをグランドでさせなかった(そのため、ロッカールームで行った)因縁の対決となった。今回は、ハカをグランドで行えたが、その後両チームがにらみ合いを1分23秒も続けることとなった。これは、ウェールズのNZ人監督ワレン・ゲイトランドがやらせたということだが、困った南アフリカ人レフェリーのジョナサン・カプランは、両チームのキャプテンに話しかけた結果、ようやくキックオフになった。

 この時、LOアリ・ウィリアムスは、ハカの端にベテラン選手としていたため、レフェリーのカプランから「OK, That’s enough, Ali(アリ、もう十分だろう)」と言われたが、動かなかった。そこでカプランは、キャプテンのマコウに話したが、マコウはチームの仲間を振り返って誰も動こうとしないことを確かめて、やはり動かなかった。そこでカプランは、ウェールズに対して「C’mon, C’mon!(早く、早く)」と言ったが、それでも動かなかった。

画像1

2008年のウェールズ対オールブラックス。睨み合う両チーム。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?