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<書評>“Behind the SLVER FERN, Playing rugby for New Zealand”「シルバーファーンの裏側で、NZラグビーの歴史」その6

 1996年には、トライネーションズの最終試合に加えて3試合のテストマッチ、さらにミッドウィークのゲームも行う、オールブラックスの南アフリカ遠征が行われた。この遠征で、オールブラックスは南アフリカとのテストマッチ4試合に3勝1敗と初めてアウェイで勝ち越す快挙を成し遂げた。

 特に、最後の1995年RWC決勝の舞台となったエリスパークでの第4テストマッチでは、SOアンドリュウ・マーテンズが怪我で欠場したため、サイモン・カルハインがSOで先発し、得意のゴールキックを決めまくったが、後半60分に手の怪我で退場した。代わりにSOを務めたのは、SHも兼任していたジョー・プレストンだったが、彼も確実にゴールキックを決めて勝利に貢献した。プレストンはSH兼SOとして、ミッドウィークのゲームも含めて遠征全試合の出場メンバーであった。また、7番で活躍したマイケル・ジョーンズが6番で復帰し、7番ジョシュ・クロンフェルド、NO.8ジンザン・ブルックの3人は完璧なFW3列となった。さらに、ジンザン・ブルックは、得意のDGを第4テストマッチで決めている。

 1997年、オールブラックスは、シーズン最後のアウェイのイングランド戦で引き分けた以外は、テストマッチ全勝で終えた。しかし、怪物WTBジョナ・ロムーは、腎臓病により2年間休養することとなった。また、長年チームを支えてきた、キャプテンのHOショーン・フィッツパトリック、CTBフランク・バンス、NO.8ジンザン・ブルック、FLマイケル・ジョーンズ、PRオロ・ブラウンらが、引退を迎えることとなった。特に、キャプテンは、経験値の浅いSHジャスティン・マーシャルに短期間引き継がれ、その後に21歳のFLテーン・ランデルが就任するなど、リーダーシップに課題を抱えることとなった。また、SOには、好調のカルロス・スペンサーを抜擢し、アンドリュウ・マーテンズは、リザーブに回ることが多くなった。

 この唯一引き分けとなったイングランド戦では、マーシャルがキャプテンをしていたが、アンチオールブラックスのレフェリーであるジム・フレミングに対して、「もしイングランドがラックからのボール出しを邪魔する行為に対してレフェリングしないのであれば、自分たちでイングランド選手を排除する」と言ったら、フレミングはマーシャルに対して「そういうことを言ってはならない」と怒って、10m後退の反則を取った。マーシャルが「自分はただ説明しただけだ」と言ったところ、フレミングはさらに10mを加えて20m後退させ、さらに10m後退させる勢いであった。この結果、ゴールラインに向けて前進したイングランドは、易々とPGの3点を加えたことが、引き分けの結果に影響した。

 1998年、前年末のベテラン選手の引退が影響して、オールブラックスはトライネーションズで、1949年以来となるテストマッチ5連敗をしてしまう。特に、ダーバンの南アフリカ戦では、オーストリア人レフェリーのピーター・マーシャルが、南アフリカがモールでインゴールに入ったものの、ボールを持っていたHOジェイムズ・ダルトンがノッコンしたのを見逃して、トライを与えたことが、オールブラックスの敗戦に繋がった。

 こうしたことを経て、ジョン・ハートはキャプテンをジャスティン・マーシャルから、さらに経験値の浅く、21歳と若いFLテーン・ランデルに代えたが、ランデル自身も、自分のような経験値のない若い選手をキャプテンに指名すべきでなかったと証言している。こうして、ジョン・ハート監督の率いるオールブラックスは、史上最弱のチームと化しながら、1999年RWCを迎えることになった。

【個人的見解】
オークランドファンを中心に、ジョン・ハートこそ名監督であり、アレックス・ワイリーやロリー・メインズを、オールブラックスの監督に就任させたのは間違いであったとの論調が、日本のラグビーマガジン誌にも掲載されていた。しかし、1999年RWCの惨劇を待つまでもなく、ハートはオークランド州代表レベル及びオールブラックスのアシスタントコーチレベルでは優れたコーチだったが、オールブラックスでは最悪のコーチであったことがわかる。何よりも、世代交代やキャプテンシー、さらにリーダーシップの重要性を理解していなかったのは、コーチとして失格だった。また、オークランド州代表も、ハート時代ではなく、グラハム・ヘンリー監督になってからさらに強くなったのだった。

 1999年RWCを前に、ジョン・ハート監督は、自らの投資関係の問題を抱えていた。そして、オールブラックスに対しては、WTBのジェフ・ウィルソンを本人が希望するFBに代え、本来FBのクリスチャン・カレンをWTB、後に13番CTBにし、WTBジョナ・ロムーをリザーブに下げるという誰から見てもおかしな交代をさせた。また、13番CTBとしてNZ最高の選手であったタナ・ウマンガをWTBに固定した。リーダーシップにおいても、テーン・ランデルという若く未熟な選手をキャプテンに指名し、過度の負担を負わせていた。さらに、1999年RWCの準決勝フランス戦の前に、決勝戦の話をしてフランスを軽視した上に、試合が始まってから、フランスのキッキングゲームに対して選手たちが対応すべく戦術の変更を申し出たことを却下して、惨劇の原因を作った。

 SHジャスティン・マーシャルが、1999年RWCで敗退した後、NZの空港でスーツケースが出てくるのを待っていたところ、そこには「Loser(負け犬)」と落書きされていた。それくらい、この敗退がNZ国民に与えるショックは大きかったので、その責任を取ってハートは監督を辞任した。

 2000年、オールブラックスの監督は、クルセイダーズで実績を持っているウェイン・スミスが指名され、キャプテンは同じくクルセイダーズLOトッド・ブラカッダーとなった。

 オールブラックスのマネージャーには、アンドリュウ・マーティン大佐という元陸軍軍人で州代表のPR経験者が就任した。彼は、2000年末のフランス遠征に際して、初めて、1905年オールブラックスのキャプテンとして歴史に名前を刻み、第1次世界大戦で戦死した、デイヴ・ギャラハーの墓参を実現した。オールブラックスは、先達の作り上げた伝統を再確認することとなり、以降これが恒例となっている。また、2000年からメンタルコーチとして、ギルバート・エノカが加入したが、これは選手に対する効果が非常に大きかった。

 2001年、オールブラックスの戦績が不安定かつブレディスローカップを奪還できないことから、ウェイン・スミスが更迭された。しかし、スミスは、その後のオールブラックス強化の基盤を作り上げた功績を残している。後任監督は、同じくクルセイダーズで実績を残しているロビー・ディーンズが有力視されていたが、クルセイダーズでの仕事が残っているとして、アシスタントコーチに留まり、英国からNZに戻りワイカトで実績を残していたジョン・ミッチェルが監督に就任した。また、キャプテンも、ブラカッダーからHOアントン・オリバーに交代した。

 その年のアイルランド、スコットランド、アルゼンチン遠征では、クリスチャン・カレンがスコッド外となる、誰もが不思議に思う事態が起きた。しかし、アイルランド戦では、20歳のFLリッチー・マコウが、オールブラックスにデビューしている。

 2002年、NZに遠征してきたアイルランドを迎え撃つオールブラックスは、コーチのディーンズの影響を強く受け、先発15人中、ウェリントン(ハリケーンズ)のWTBジョナ・ロムーを除いて、全員がカンタベリー(クルセイダーズ)の選手で構成され、「クルセイダーブラックス」と称された。そして、キャプテンは、寡黙なFLルーベン・ソーン(クルセイダーズ)に交代している。
 
 2002年の英仏遠征では、長年チームに貢献した偉大なWTBジョナ・ロムーが、持病の腎臓病による最後の試合となった。また、同じく歴史に残るFBクリスチャン・カレンも最後の試合となってしまった。
 
 こういうチーム内に不協和音が鳴り響いている状態で、2003年RWCを迎えた。このRWC自体は、そもそもNZとオーストラリアの共同開催の予定だったが、IRB(世界ラグビー評議会)が、NZのスタジアムは開催条件に合っていないとして除外した後の、オーストラリア単独開催だった。

 このRWC用スコッドには、ベテランSOアンドリュウ・マーテンズとFBクリスチャン・カレンを入れるべきだったが、ミッチェル監督は無視した。そして、SOカルロス・スペンサーは、ゴールキックの不調に悩まされていた。また唯一の13番CTBだったタナ・ウマンガが、怪我で離脱してしまった。チームは、ゴールキッカーと13番が不在となっていた。この年SOダニエル・カーターがメンバー入りしていたが、RWCでいきなりゴールキッカーを任せることはできなかった。そのため、FBレオン・マクドナルドを13番に入れ、ゴールキッカーに据えた。FBにはムリス・ムリアイナが入り、準々決勝の南アフリカ戦までは機能したが、準決勝のオーストラリア戦はチームの若さと未熟さが出てしまい、1999年に続く準決勝敗退となり、オーストラリアSHジョージ・グレーガンから「Four more year さらに4年」と言われることとなった。

 2003年、28戦23勝の戦績を残した、ジョン・ミッチェル監督とロビー・ディーンズのアシスタントコーチ体制は、メディアの影響もあり、交代させられることとなった。ディーンズが後任監督の有力候補だったが、1998年にウェールズ監督になっていたグラハム・ヘンリーを、最終的に監督に指名した。ヘンリーは、海外に行っていた者はオールブラックスと関わらせないという慣例を破るものとなった。また、ウェイン・スミス、スティーヴ・ハンセンという優秀な2人のアシスタントコーチを入れて、強力な指導体制を築いた。

 キャプテンは、ウェリントン・ハリケーンズのCTBタナ・ウマガとなった。

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CTBタナ・ウマガ

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