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<短編小説>岩屋に住む娘との恋

 日露戦争が終わった明治の終わりころの話である。戦争から故郷に戻って来た佐藤某は、東北の海岸沿いの町で、家業である漁師の手伝いをしていた。戦争に駆り出さなければ、早々に親戚の娘と縁談が組まれるはずだったが、明日の命も知れぬ者に嫁をやるわけにはいかないと言われ、佐藤は戦地に赴いた。しかし、幸いなことに無傷で帰郷したので、さあこれから嫁取りをして漁に励もう、というつもりであったが、その時には既に年頃の娘は皆嫁に行ってしまい、佐藤に選択肢は残されていなかった。

 そうして無聊の日々を送っている佐藤にとって、毎日の友は自然と酒になったが、ある日酒を切らしているのに気づき、町の酒屋まで買いに行くことにした。もう日が暮れており、町を歩く人は少ないが、幸い酒屋は夜遅くでも売ってくれた。それを知っているからこそ、こんな暗い夜道を一人で歩いて行ったのだが、町へ向かう途中には小さな川があり、そこに古びた木橋があった。この橋を越えてしばらく歩けば、そこに目指す酒屋はある。

 「まだ先だな」と佐藤が言いながら、古びた提灯を掲げて橋の袂に近づいたとき、そこに一人の老婆が立っているのを見つけた。こんな夜更けにこんな場所で、何をしているのだ?と佐藤は怪しんだが、その老婆は、佐藤が近づくのを待っていたように、穏やかな声で話しかけてきた。

「もうし、そこを行く旦那さん。誠に申し訳ないのですが、お願いを聞いていただけないでしょうか。・・・実は、私の娘が病気なのですが、これから町へ行かれるのであれば、そこにある薬屋で薬を買ってきていただけませんか。私は娘の看病があり、長く家を空けるわけにはいかないのです。必要なお金はありますから、お願いできないでしょうか」と老婆は、丁寧なもの言いで佐藤に頭を下げてきた。佐藤が老婆の服装を見ると、いかにも貧しい姿だったが、それでも精一杯小奇麗にしている感じはした。これは、どこかの乞食の家族が病気にでもなったのだろう。・・・ふん、ここはひとつ善行を積むことにしても損はないだろう。それに、この婆さんは人をだますようには思えない。きっと娘の病気が心配なのだろう。では、酒のついでに薬屋によってやるかと佐藤は考え、老婆に対して「いいですよ、私はこれから酒を買いに行くので、そのついでに薬屋にも寄ってきましょう」と快諾した。

 佐藤は、老婆からなぜか古錆びた小銭ばかりを受け取ると、そのまま町へ向かい、自分の必要な酒を買い、その帰り道に薬屋に寄った。老婆から聞いていた薬は、受け取った小銭で足りたが、薬屋の主人が言うには「この薬を必要とするなら、あんまり長くはなさそうだね」と、佐藤に聞かせるでもなく話したことが心の片隅に残っていた。そのためか、老婆が待っている橋へ戻る途中、佐藤は、薬屋の言った「先は長くない」という言葉と、勝手に想像した老婆の娘の姿を比べて、少しばかり切ない気持ちになっているのを感じて、なぜだろうなと自分でも不思議に思っていた。。

 すぐに佐藤は橋の袂にいる老婆を見つけた。老婆は、そこにずっと待っていたようだった。そして、佐藤の姿を見ると、とても嬉しそうな顔で出迎え、「本当にありがとうございます。これで娘は助かります。こんなにご親切にしていただいて、お礼のしようがありません」と礼を述べてきた。佐藤は、自分のしたささやかな善行と老婆の大きな感謝を受けたことで酷く満足していたが、薬屋の言った言葉がどこかにひっかかっていて、老婆を見る目が少しばかり悲しげになっているのを、もしかすると老婆は見たのかも知れない。

 老婆は、「もしよろしければ、私たちはこんな生活をしているので、たいしたお礼はできませんが、私の家はここから近いので、是非お寄りになってお茶でも召し上がりませんか。そして、私の娘からもお礼を伝えたいと思います」と誘ってきた。佐藤は、乞食の家に行くのか?どうせ、たいしたものも出ないだろう。でも、この老婆と娘がどんな生活をしてるのかを見てみたい気がする。そして、娘だ。もしかすると、案外美人かも知れぬぞと思い、「そこまで言うのなら、せっかくだから行くことにしよう」と老婆に応えた。

 老婆は、佐藤の返事を聞いてたいそう喜び、「どうぞこちらです」と言いながら、山の方へ向かう夜道を、提灯の灯りをもたずにすたすたと歩きだした。佐藤は、月明かりがあるとはいえ、こんな暗い山道を、提灯もなく老婆がこんなに早く歩くとは、これはもしかすると物の怪かも知れないなと、少しばかり心配になったが、いや、もうここまで来たからには、その物の怪とやらに会ってやろうと腹を据えて、老婆の後について行った。

 煌煌とした月明かりに導かれるようにして、老婆は細く草木が生い茂る道を山の麓まで登って行った。そこには手頃な大きさの洞窟があった。老婆は、その洞窟の中へすうっと入って行ったので、佐藤もその後をついて行ったが、洞窟の入口には、いかにも家屋の風を装った枯れ木を集めた鳥居のようなものが飾ってある。そして、入口には使い古したむしろが下がっており、それが簡易的なドアのような役割をしていた。

 岩屋の中に入ると、既に蝋燭の薄明りが一本だけたよりなげに灯っていて、その灯りの周囲がおぼろげに浮かんでいる。どうせ乞食の住処だから、家財道具もなにもないだろうとたかをくくっていた佐藤だが、老婆の「どうぞこちらへ」という言葉に促されて、岩屋の奥に向かうと、そこには使い古してところどころ擦り切れてはいるが、ちゃんと畳が敷いてあり、またこれもいかにも古道具然とした汚れや傷があるものの、家財道具らしきものが揃っていた。しかもみなよく手入れして清潔感があり、またあるべきところにきちんと置かれてあるのは、まるでちょっとした商人の家のようであり、漁の道具やら酒瓶やらが散らかっている佐藤の部屋よりは、よほどこざっぱりとしていた。

 そのよく片付けられた部屋の片隅に、薬を求めていた娘が花模様のある布団に寝ていた。娘は起き上がり、「ありがとう、お母さん」といいながら薬をもらい、それを一口飲んだが、佐藤がそこにいるのを知って、佐藤の方をじっと見つめてきた。そして、既に老婆からことのいきさつを聞いたのだろう、佐藤に向かって、こっくりと頭を下げた。

 それを見た佐藤は、その娘の姿が、さすがに病んでいるだけあって弱弱しい感じがしたが、歳の頃は二十歳少し過ぎで、ほっそりとした身体を浴衣で包み、どこかとても艶めかしい感じを漂わせている。その奥の方に強い情熱を込めたような目の色は、地元の者にしてはとても青く、どこか遠い国から来たように見えた。佐藤は、この娘を見た瞬間、もし病でなければ、よほどの器量良しに違いないと悟った。そして、俺も戦争に行かなければ、こんな娘と今頃所帯を持って楽しく暮らしていただろうに、と強く思った。

 それを老婆と娘が感づいたかどうかはわからない。まもなく、老婆は佐藤に茶菓を出してきて、娘を交えて四方山話を始めた。老婆と娘は、まるで客あしらいに慣れた女たちのように、話の仕方や相槌の打ち方、そして茶菓の勧め方など、ここが山の中の岩屋であることを忘れさせるくらいに、楽しませることに長けていた。佐藤は、最初怪しんでいた気持ちはとうに消え失せてしまい、夜が更けるのも気にしないほどに打ち解けていた。都合の良いことに、さっき酒屋から買って来た酒もあった。佐藤は、老婆と娘を相手に楽しい酒盛りをして、そうして時間があっという間に過ぎて行った。

 さすがに、夜が明ける頃には佐藤も家に帰らないと家の者がたいそう心配するので、この岩屋を後にしたが、入口の外で、佐藤をずっと見送っている老婆と娘の姿に、後ろ髪をひかれるようにして山道を降りて行った。そして、「よろしかったら、明日の晩もお越しくださいますか。娘もあなた様と話すのが楽しく、よい癒しになるようですから」という老婆の言葉を聞いて、明日も、漁が終わったら酒を買ってここに来よう。あの可哀そうな娘がそうまで言うなら、これも善行になると自分に言い聞かせながら、佐藤は心地よい朝日を浴びつつ家路を急いだ。

 家に帰ってみると、昨晩は帰って来なかった佐藤が、もしかしたら物の怪にでもさらわれたのじゃないかと、家の者皆が心配して待っていたが、いやあ、酒を買う途中に出会った乞食の婆さんから、病気の娘にやる薬を頼まれて買ってやったところ、そのお礼にといって茶菓をごちそうになった。ついでに、買ったばかりの酒を一緒に酌み交わしたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。乞食にしては、わりあいにきちんとした生活をしているようだから、まさか物の怪というわけもあるまい、と佐藤が説明すると、家の者は、「そういうことなら余計な心配せんでもよいが、でも、さすがに朝帰りは漁にも良くないから、これは慎めよ」と注意してその場は済んだ。

 その日の夕方、佐藤はいつものように漁を終えてから、身支度を整え、酒を買いに行くと家の者に言い残して町へ向かった。そして、酒を買うと、昨晩訪ねた岩屋にそのまま行き先を変えた。さすがに朝帰りは良くないが、夜が更けぬ前に帰ってくれば、家の者も心配することはあるまい、なにあの娘が元気かと見るのと、次に薬を買いにいくのはいつかを聞くだけだ。これも俺の親切な気持ちからであって、あの妖艶な娘に惚れたためじゃない、と佐藤は自分に言い聞かせながら、山道を急いで登って行った。

 岩屋の入口に着くと、まるで佐藤が来るのを待ち構えていたように、老婆が立っていた。そして、「また来てくれましたね、奥で娘が待っていますよ」と笑顔で出迎えた。佐藤は、「いやあ、娘さんは元気かね、薬が切れたのじゃないかと心配になって、見に来たよ」と言いながら、娘のいる部屋に向かった。そこで娘は、既に浴衣から普通の小奇麗な着物に着替えて、座敷で待っていた。既に茶菓は用意してあった。そして、佐藤の持つ酒瓶を見ると、娘はすぐに立ち上がって酒器を揃えた。まるで、新婚の夫の帰りを迎える新妻のようだと、佐藤は思った。

 佐藤は、さっそく畳に座り込んで、娘と昨晩からの四方山話を続けた。酒はどんどん進んだ。酔っていくうちにふと気づいたのだが、老婆は遠慮したのか、最初から中に入ってこなかった。これは、妙な気遣いをしてもらっても、俺としては困るから、ここらへんで帰るとするかと佐藤は思い、外にいるであろう老婆に、「そろそろ、俺は帰るよ」と声をかけた。その声を聞いた老婆は、すぐに室内に入って来て、「あら、まだいいじゃありませんか」と引き留めたが、佐藤は、昨晩のこともあるので、「俺はこれで帰る。薬が入用になったら、またあの橋で待っていてくれ」とだけ伝えて、岩屋を出た。

 その晩は、家の者に、「晩飯は、町の居酒屋で食べてきたから」と言って、すぐに布団に入ったが、それでもなかなか寝付かれない。岩屋から家に着くまでの間、娘の声と姿が浮かんでは消え、それがだんだんと強くなっていった。今は、もう娘のことしか頭には浮かんでこない。乞食の娘に俺はおかしくなったのか、と自分に問うてみるが、心の中からは「あの娘は、良い女だ」という声が返って来るだけだった。

 そうして、二晩ほど過ぎた日の夕方のことだ。少しのぼせたような赤ら顔になっていた佐藤は、町で酒を買うとともに、薬屋で娘の薬を買い、ためらうことなく岩屋へと向かった。岩屋に着くと、やはり待っていたかのように老婆が入口にいた。薬を買ってきたことを伝えると、「ありがとうございます。では、すぐに娘にあげてください」と言うなり、自分はどこか山の中に消えていった。老婆が夜、山の中に入るのは危険だと思うが、さすがに慣れているのだろう、良く知った道を行くように歩いていく。佐藤はその後ろ姿を目で追っていたが、夜の暗さもあって間もなく見えなくなった。しかし、見えなくなったとき、老婆が一瞬小さくなったような気がしたのは錯覚かも知れない。そしてまた、山中から多くの獣たちの鳴き声が響いてきたのも、これも偶然であったのだろう。

 岩屋の奥に入ると、娘は以前と同じようにして佐藤を待っていた。そして、いつものように茶菓を出し、酒器を出し、酒盛りを始めた。佐藤が薬を持ってきたことを伝えると、娘は、ちょっとためらうような姿を見せたあと、「もし、よろしければ、その薬を私の口に入れてくれますか」と頼んできた。佐藤は、酒が進んでいたこともあって、何の躊躇もなく、娘の口に手を添えた。その瞬間、娘のきゃしゃな手に抱かれた佐藤は、そのまま娘とともに座敷に倒れこんでいった。

 こうして佐藤は、気付いてみると毎晩娘のところに通うようになっていた。町の居酒屋なら大金を浪費するだろうが、ここは乞食の棲む岩屋だ。せいぜい薬代と酒代だけしかかからない。そして、いつの間にか佐藤と娘は、まるで夫婦のようになっていた。しかし、娘との仲が深まるにつれて、佐藤の身体には目に見える変化が表れていた。あきらかにやせ細り、精気が少しずつ失われているように見えたのだ。それを心配した友人たちが、佐藤に「お前、最近妙にやつれてないか。誰かよい女にでも魂を吸い取られているのと違うか」と問い詰めてきた。

 それで佐藤は、実は、この先の山の岩屋に、乞食の婆さんと娘が住んでいる。たまたま病気の娘の薬を買ってやったところ、そのお礼ということで岩屋に招いてくれた。乞食暮らしの割には小奇麗にしており、病気の娘もおかしなところはなかった。いやそれ以上に、その娘は艶めかしく、なんとも言えない魅力がある。そのため、何回か通ううちに夫婦の仲になってしまった、とこれまでのいきさつを説明した。それを聞いた友人たちは、「それはずいぶんと妙な話だ。第一、山の岩屋に乞食が住んでいるなんて聞いたこともない。そいつらは、絶対に物の怪に違いない。お前は騙されているのに違いないから、このままだと命を取られるぞ」と佐藤に忠告した。

 それを聞いた佐藤は、一瞬心配になったが、娘に対する気持ちがあまりにも強く、思わず「そんなことは絶対にない。あの娘はとっても器量良しだ」と反論した。しかし、友人たちは、佐藤の奴、余程その女に入れあげているに違いない。これは俺たちが何とかしてやらんと危ないぞ、と思い、佐藤に「それなら、今日の夜でも俺たちを一緒に岩屋に連れて行け。そして、俺たちがその娘が物の怪かどうか確かめてやる」と言って、一緒に岩屋に行くことになった。

 その夜、佐藤は、いつものように酒屋で酒を買い、薬屋で薬を買った。そして、岩屋に向かったが、これまでと違って二人の友人が一緒だった。友人たちは、暗い山道を登って行くにつれて、「こりゃあ、絶対に物の怪の住処だろう」と言い合っていたが、間もなく岩屋の入口に着き、そこに老婆が待っているのを見ると、思わず黙り込んだ。一方の老婆は、佐藤が突然二人の友人を連れてきたことに、少しばかり驚いたが、すぐに元の愛想のよい表情に戻り、「さあさ、今晩はお友達をお連れですか。娘は奥で待っていますから、どうぞご一緒に楽しんでください」と言い捨てて、いつものように山の中へ、動物たちの鳴き声とともに消えて行った。

 佐藤は、友人二人を我が家の如くに岩屋の奥に案内した。例の娘は、この日も小奇麗な着物で飾り立て、佐藤を待っていた。用意していた茶菓や酒器は佐藤の分しかなかったので、友人二人の姿を見た娘は、二人分の茶菓と酒器をすぐに用意しだした。娘が酷く驚くのではないかと心配していた佐藤だが、この娘の対応にほっとするとともに、まあ、とにかく歓迎してくれたから、これで良いと納得していた。

 娘は、いつもと変わらずに佐藤と二人の友人たちを楽しくもてなした。出された茶菓も、たいしたものではないが、それでもお客をもてなすのには十分なもので、乞食暮らしにしては意外と生活に困っていないように見えた。この日は、さすがに佐藤も娘と情を交わすことまではできないので、二時間ほど経ってから友人二人とともに岩屋を後にした。その時、友人の一人は、出された菓子を食べずに、こっそりと懐に入れて持って帰っていた。三人は、岩屋から出た後、小川にかかる橋まで来ると、そこでしばし立ち止まり、岩屋での出来事を話し合った。

 「そうだ、これを持ってきた」と友人の一人が言って、懐から岩屋でもてなされた菓子を出してきた。橋の上で三人は、その菓子を改めて見てみた。どう見ても外見は普通の菓子そのものだ。さっき岩屋の中で食べてはいたが、もしかしたら違うものが化けていたのかも知れないと思い、三人はひとかけら毎に分けて食べてみたが、やはり、普通の菓子である。木の実とか葉っぱとかをごまかして菓子にしているのではない。友人二人と佐藤は、お互いのの顔を無言で見合わせた。そして佐藤は、安心と不安の入り混じった顔をしていたが、友人二人の反応を見て、ちょっと誇らしい顔を見せて言った。
「やっぱり、良い女だったろう」
友人二人は、佐藤の言葉に同意したが、それでも、「でも、なんでお前がどんどんやつれていくのだ」と問うた。佐藤は、しばらく無言だったが、「たぶん、毎夜娘とねんごろになっているからじゃないか」と言って、薄ら笑いを浮かべた。

 次の夜、佐藤はまた一人で岩屋に向かった。いつものように酒と薬を持って行った。最近薬を毎日持って行くようにしたのは、最初のころと比べて娘がやつれているように見えたからだ。佐藤は自分もやつれていくのを自覚していたので、もしかすると娘の病気を自分がもらったのかも知れないと考えたが、もしそうであれば、自分も娘とともにあの世に行けるのなら、それも本望だと思うくらい、娘に対する情はとても深くなっていた。

 娘は、いつもどおりに佐藤を迎えると、またいつも通りに酒盛りを始めた。すると、今晩はいつもと違って、娘は神妙に話し出した。
「じつは、昨日あなたの友達が私を怪しんでいたので、もう来ないかと心配していたのですが、今日も来てくれて、とても嬉しい。でも、これまで黙っていたけど、やはり言っておきたいことがあります」
「私たちは、人間ではないのです。では、物の怪かと言われれば違います。もともとは町の神社の裏にある森に棲む狐でした。ある時、父が人間に殺されてしまい、私と母は、この岩屋に逃げてきたのです」

「あなたのご親切には、母も私も大変に感謝しています。またこうしてあなたと親しくなれたことは、とても嬉しかったのです。そして、会うたびにどんどんとあなたへの情が深くなっていって、今私は、あなたの妻であると思っています」
「でも、そうして情が深くなるにつれて、いつかは私たちの本当のことを言わねばならないとわかったのです。・・・私たちが人間の女ではない、狐だと知って、あなたはきっと愛想をつかすでしょうけど、仕方ないですね・・・」
 娘はそこまで一気に言うと、さめざめと涙を流した。娘の涙は、手に持つ酒器に零れ落ち、そのまま畳の上まで濡らしていった。佐藤は、その涙をじっと見つめていたが、突然娘に言った。
「いや、俺はそんなことは絶対に嫌だ。お前とは決して離れはしない。お前さえ良ければ、ずっとこうして暮らそう。・・・そうだ、この岩屋暮らしが良くないのなら、俺の家に嫁としてくればよい。・・・乞食であっても関係ない、狐であっても良い、お前は立派な人間の女なのだから」

 佐藤の言葉を聞いて、娘はさらに涙を流したが、しばらくすると、涙をぬぐいながらきっぱりとした口調で話し出した。
「あなたの気持ちは、痛いほどよくわかります。そして私の気持ちも同じです。でも、いつまでもこうしているわけにはいかないのです。・・・私の命は長くありません。そして、あなたもこうして私と一緒にいると、身体に障るでしょうし、何よりも世間が許さないでしょう。・・・私はどうなってもかまわないけど、あなたが困るようなことは、私も母も決して望んでいません・・・」
 佐藤は黙って娘の話を聞いていた。そして、何か言おうとしたとき、娘が先に口を開いた。
「だから、とても悲しいことですが、これっきりで別れましょう。今はまだ大丈夫であっても、またあなたの友達がやってきたら、どうなるかわかりません。あなたに嫌な思いをさせないためにも、今ここで別れることにしましょう・・・」
 そう娘は言うと、きゃしゃな身体をゆっくりと起こして、佐藤を岩屋の入口まで押していった。病弱だと思っていた娘に、こんな力があることに佐藤は少し驚いたが、娘から別れを切り出されたことで、佐藤は腑抜けのようになっており、娘のなすままに入口に向かっていた。そこには、すでに老婆が待っていた。老婆の顔からも、静かに涙が流れていたが、何も言わなかった。夜空に星がひとつ流れていくのが見えた。良い月明りの晩だった。遠くで、狼の遠吠えが聞こえた。

 佐藤は、涙でくしゃくしゃになった顔をぬぐうこともせず、娘の身体を思い切り抱きしめると、そのまま何も言わずに山道を降りて行った。もし振り返ると、絶対に未練が残るに決まっているのがわかっていたから、娘と老婆の姿を見ることはしなかった。しかし、佐藤は背中に痛いほどの強い視線を感じていた。その視線は「さよなら」という言葉を、佐藤の背中に刻み付けているようだった。

 それから、十日ほど経った頃、佐藤はやはり娘にもう一度会ってみたくなり、岩屋に向かった。夜だったせいか、その岩屋は見つからなかった。そこで、次の日は昼間に岩屋へ行ってみた。絶対にこの辺りだと、覚えているところを必死に探してみたが、岩屋らしいものは見つからない。そこにあるのは山の中腹にあるなんの変哲もない岩の塊だけだった。こうして佐藤は、毎日岩屋のあった場所を探しに行くようになったが、三か月ほど経ったころ、ようやく諦めることになった。

 それから佐藤は、しばらく呆けたようにしていたので、一緒に岩屋を訪ねた友人たちが心配になって、佐藤に「あの娘はどうなった、やっぱり物の怪だったのじゃないか」と訊ねた。佐藤は、「いや、あの娘はほんとうに良い女だった。日本中のどこを探しても、あの娘以上の女はいない。・・・でも、長く患っていたから、・・死んだよ・・・」と言った。それを聞いた友人は、「そうか、良い女であったか・・・」とだけ答えた。

 漁をしている佐藤の家から、浜は近い。少し歩けばそこはもう海だ。そして振り返ると娘がいた山が見える。その時、山から海に向かって強い風が吹いてきて、佐藤の背中を強く叩いた。まるで、背中に文字を書いているようにその風が動くのを感じた。佐藤には、すぐに読み取れた。その書かれた文字は、岩屋を去ったときと同じものだった。佐藤は心の中で、「この言葉は絶対に忘れない、そして誰にも教えない」と叫んだ。そして、浜で見つけたピンク色の巻貝を、打ち寄せる波に向かって思い切り投げてみた。その巻貝は、波に流されてゆっくりと沖合に向かっていった。まるで小さな船が遠い国に旅立つように見えた。佐藤は、少しだけ心のどこかが軽くなった気がした。

<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、小説集です。宜しくお願いします。>


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