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<書評>“Behind the SLVER FERN, Playing rugby for New Zealand”「シルバーファーンの裏側で、NZラグビーの歴史」その4

1987年以前は、南アフリカが世界NO.1と見られていた。また、1987年RWCの優勝候補には、前年のブレディスローカップを制していたオーストラリアが挙げられていた(南アフリカは、アパルトヘイトで不参加)。そして、優勝候補NO.2には、前年のオールブラックスのフランス遠征で1勝1敗の記録を残したフランスが有力視され、オールブラックスは3番目とされていた。

オールブラックスは、イタリア、フィジー、(1985年の準メンバーによる遠征で1勝1分だった)アルゼンチンとの予選プールマッチに全勝し、準々決勝でスコットランドと対戦した。当時のスコットランドは、フロントローを中心にFWが強いチームで、オールブラックスはスクラムで苦戦すると見られていた。そのため、スコットランド戦前の練習は、特に厳しいものとなった。

監督のブライアン・ロホアーは、初めてとなる、負けたら終わりというサドンデスの試合を前に、ロッカールームで選手たちに話した。
「ここに2枚のチケットがある。もし土曜に負けたら家に帰るチケット、もうひとつは(準決勝の)ブリスベンに行くチケットだ。これはこれから100年も語り継がれることになるだろう」これに対して、シェルフォードが真っ先に口を開いて、「負けないぞ!」と叫び、グランドに飛び出したという。

シェルフォードは、準決勝のオーストラリア対ウェールズ戦を、フランスに勝ってくれと願って見ていた。前年のフランス遠征での借りを返すことが、シェルフォードの念願だったのだ。しかし、世界の大半の人々はオーストラリアが決勝に出てくると予想していた。

1987年のRWC優勝は、1981年の南アフリカのNZ遠征で、NZ中がオールブラックスを巡って人々が争うことになった悪夢を、癒すことに貢献した。オールブラックスだけでなく全NZ国民にとって、素晴らしいイベントとなった。しかし、オールブラックスのRWC優勝が、この後24年間も待たされるとは誰も想像しなかっただろう。

1989年の北半球遠征のアイルランド戦で、アイルランドが史上初めてオールブラックスのハカに対抗するパフォーマンスをした。キャプテンのウィリー・アンダーソンのリードで、選手たちは腕を組んで前進し、オールブラックスの選手たちと顔と顔がぶつかりそうになった。これに対して、アイルランドのメディアは、「Paddy O’Haka(パディは、アイルランド人に多い名前。氏の前にOが付くのは、スコットランド系のMc同様に、「誰々の子」というのが原義となっているアイルランドに多い文字。これにHakaを付けて茶化した)」と揶揄した。

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1989年のアイルランド対オールブラックス。前進したアイルランド。

【個人的見解】
日本のラグビーマガジン誌などでは、相手チームがハカに対抗したのは、1991年RWC準決勝のオーストラリアのデイヴィット・キャンピージが初めてで、次いで2011年RWC決勝のフランスと書かれているが、1989年に既にアイルランドが行っていることは周知の事実。また、2017年のシカゴでアイルランドは、Vの字を作って対抗することをしている。他にも、2004年のカーディフのウェールズ戦で、国歌斉唱後のハカを禁止されたため、ロッカールームで行ったこともある。


1989年のカーディフのウェールズ戦は、HOショーン・フィッツパトリックが、1953年に戦った父を継ぐものだった。この試合に家族はNZから応援に来ていたが、父は病に倒れて来られなかった。その後フィッツパトリックは、父の葬儀のためNZにとんぼ返りして、すぐにイングランドに戻ってきた。その時一人パブで飲んでいると、ウェールズ代表SOジョナサン・デイヴィスの紹介で来たという人が寄ってきて、「これは、1953年の試合であなたのお父さんが着たジャージだ。最近亡くなったということを聞いて、お返ししたい」と言ってきた。この時、フィッツパトリックには、天国から父の「受け取るな」という声が聞こえてきたが、それでもありがたくもらうことにした。それ以来、その人とは良い友達になっている。

ジョン・ギャラハーによれば、1989年当時オールブラックスは、毎月2,000ドルをもらっていたが、ギャラハーが移籍した英国のリーグラグビーでは、比較できないほどの金額を提示してきたという。このアイルランド系英国人で、NZ市民権を得てオールブラックスになったギャラハー(1995年まで英国リーグでプレーも活躍できず)に続いて、多くのNZ人がリーグに移籍することとなった。

1991年RWC前に移籍した選手
ジョニー・シュースター(CTB、オーストラリア及び英国のリーグ)
フラノ・ボティカ(SO、英国リーグ、その後ユニオンのクロアチア代表になる)
ダリル・ハリガン(FB、オーストラリアリーグ)
ブレット・ピーター・イティ(SH、英国リーグ)
1991年RWC以降に移籍した選手
クレイグ・インズ(CTB、オーストラリア及び英国リーグ)
ヴァエガ(インガ)・ツイガマラ(WTB、英国リーグ)

1991年RWC準決勝敗退により監督アレックス・ワイリーは退任し、誰もが予想したオークランドのジョン・ハートが監督に就任するのではなく、オタゴ代表監督として実績を残してきた、オールブラックスの元FBで3キャップを持つロリー・メインズが監督に就任した。メインズは、オールブラックスが、オークランド代表に多く占められている他、チーム全体がオークランドの悪い部分に毒されているとみなして、キャプテンをLOギャリー・ウェットンからHOショーン・フィッツパトリックに交代させた。しかし、メインズは、オールブラックスのセレクションに先立ち、フィッツパトリックにこう連絡していた。「君は太り過ぎて、足が遅すぎて、さらにまったくもって傲慢なので、これを改善しない限りオールブラックス入りはできない」。
フィッツパトリックの他、メインズのオールブラックスに参加した選手たちは、こうした1987年RWC優勝以来傲慢になっていたメンタル及び時代にそぐわなくなっていた体質改善に努めた。

1992年は、NZ協会創立100周年という記念すべき年であり、世界選抜(World15)、アイルランドが遠征してきた他、オーストラリア及び南アフリカ遠征と、多くのテストマッチが予定されていた。
オーストラリアとのブレディスローカップでは、接戦の末、1勝2敗と負け越してしまったが、内容はチームが上向きになっていることが確認できる良いものだった。ネルソン・マンデラを釈放し、アパルトヘイトが終焉してスポーツの国際交流が認められたた南アフリカには、16年ぶりに遠征する最初のラグビーチームとなった。これはまた、64年にわたる両国交流の歴史を彩るものとなり、オールブラックスは見事な勝利を挙げることができた。

1993年には、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズが遠征してきた。ライオンズには多くのイングランド代表FWがおり、特にツインタワーとなった両LOマーティン・ベイフィールドとNZ人のマーティン・ジョンソンが、ラインアウトでオールブラックスを悩ました。また、NO.8ディーン・リチャードは、荒々しラックのプレーでオールブラックスFWを苦戦させた。しかし、接戦の末、オールブラックスはシリーズを2勝1敗で勝ち越した。この試合で、SOグラント・フォックスらの1987年RWC優勝の主力選手たちは引退し、世代交代の時期となった。

1993年、メインズはSOグラント・フォックスに代えて、オタゴでCTBをしていたマーク・エリスを据えた。12番CTBはエロニ・クラーク、13番CTBはフランク・バンスとし、WTBはセブンズで活躍したエリック・ラッシュと20歳のジェフ・ウィルソン、FBはグレッグ・クーパーの弟マシュウが務めた。
このメンバーで遠征したスコットランド戦は勝利したが、最終のイングランド戦では、唯一のキッカーであるマシュウ・クーパーが怪我をしてしまい、ゴールキッカーの役割をウィルソンが担った。しかし、経験値の浅いウィルソンには、トウィッケナムのイングランド戦という大試合でのゴールキッカーは荷が重すぎた。尽くPGを外してしまい、チームは9-15で負けた。この敗戦は、1995年RWCまでリベンジするチャンスがなかったが、またSOエリスもチームに定着することができなかった。

1994年、多くのトラブルを引き起こした1981年以来となる、南アフリカのNZ遠征が実現した。今回は何のトラブルもなかったが、ラフプレーの多い南アフリカFWにより、ショーン・フィッツパトリックの耳が噛まれるという事件があり、噛んだ選手は18週間の出場停止となった。
そして、その年の香港セブンズで大活躍したFW3列のジョナ・ロムーを、メインズはWTBに起用するというギャンブルに挑戦する。ロムーは、遠征してきたフランスとの2テストマッチにWTBとして起用されたが、フランスに連敗しただけでなく、2戦目のイーデンパークの試合では、自陣ゴール前から逆転トライをされる(「世界の果てからのトライ(Try from the end of the world)」として喧伝された)ことになった。
また、1試合だけ行われたブレディスローカップでは、WTBジェフ・ウィルソンが、オーストラリアSHジョージ・グレーガンに、ウィルソン自身ほとんど経験のないタッチダウン寸前にノッコンさせられるというトライセービングタックルをされ、ブレディスローカップを奪還できない状態が継続した。
オールブラックスは、テストマッチで敗戦を重ね、1995年RWCに向けて優秀候補から外れていったが、メインズは自分のチーム作りが着実に前進していることを実感していた。


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