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<閑話休題>「プライド」の問題?

 ある友人は、身体障碍者になってしまい補助具を付けないと直立及び歩行ができない状態になっている。しかし、電車で席を譲られるのは快くないといつも愚痴を言っている。私の実母も、脊椎管狭窄症で杖を使って歩行するようになってしまったが、タクシーなどで送り迎えしてもらってまで、観光地や温泉などに出かけたくはないという。つまり、自分の足で自分の力だけで、観光地や温泉にいかないと楽しくないと言うのだ。

 これに対して、ある人は自分自身の余計な「プライド」が邪魔していると批判している。たしかに、こうした対応を極端に簡潔な一語でいい表すとすれば、「プライドのせい」と言えるだろうが、果たしてそう決めつけることで良いのだろうか。

 私が考えるのは、むしろ、自分の力だけでやっていきたいという本人の意志は、、まさに「プライド」として、人が維持していくための重要なものではないかということだ。この「プライド」がなくなってしまったら、人は社会人として存在せず、幼児と同じ存在になってしまうのではないか。

 ところで、怪我などで膝から下を切断した人の例では、足がないのにもかかわらず足の裏がかゆくなることが多々あるという。つまり、脳自身が足がなくなったということを自覚していないため、まるで実際に足があるような電気信号を受けたと錯覚した結果なのだそうだ。

 脳自身がそうなのだから、もっと複雑である人の心は、自分が身体障碍者となったことをいともたやすく受け入れられるはずがない。他人は、「プライド」が邪魔して、せっかくの他人からの好意を受け取れないわがままな人だと安易に批判するだろう。しかし、電車で席を譲るなどの行為は、「好意」・「善意」であると勝手にその人が思い込んでいるだけで、それを与えられる相手には、必ずしも「好意」や「善意」として受け取られるとは限らない。その受け取り方は、行為を受ける側の状況によって個々に変わってくるのが自然だろう。つまり、そうした行為=好意は、自己満足の世界と隣り合わせにいるのだ。

 では、電車で席を譲ることは意味ないのか、やるべきではないのかと言えば、それはやるべきだろう。目の前に身体障碍者や老人がいれば、座っている人が席を譲ることは倫理的に自然なことだろう。しかし、だからといって、そうした「好意」を譲られた人が無条件に受けいれることを強制されるとしたら、それは理不尽であり、受け入れる人に気持ち次第で、断っても良いのだと思う。

 私のここでの結論としては、人は現実の自分の姿を、そのまま受け入れるには時間がかかるということ。そして、人は自分が理想とする姿をもっており、そこに自分自身を投影・似させることで、安定した自分自身でいられるということだ。それが「プライド」ということの、本当の意味ではないだろうか。

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