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<映画評>ラストサムライ

 一言で言えば、ハリウッド映画の東洋(日本)趣味を満喫させるファンタジーである。ファンタジーというからには、現実からかけ離れた仮想世界での、リアリティのない物語と思ってもらってよい。そして、ハリウッド西部劇からの正しい伝統である、正義の味方としての主人公(キリスト教のヨーロッパ人)が、近代化していない未開の民(異教徒である先住民)を救う物語である。

 ただし、いわゆるアメリカンニューシネマ(1970年代)以降のハリウッド映画では、主人公が幾分屈折した人生や性格があるとして描かれる傾向となっているが、この作品でもそうした基本ラインに沿って人物造形されている。

 もっと説明すれば、心が屈折した主人公が、成功したアメリカ近代文明に疲れ果て、東洋の果ての異国に、近代化以前の安らぎを見出す物語だ。その安らぎとは、アメリカ近代文明において、アメリカンインディアン(ネイティヴアメリカン)を殺戮した歴史の中で、自ら放棄してしまった近代以前にヨーロッパ人が持っていた人間性そのものに触れることだった。

 同時に主人公は、異国の近代化の歴史に巻き込まれながら、失ってしまった自分自身を発見する。それはまた、日本の侍=武士道の中によく表現されている自意識であり、主人公は、戦闘の中で自らが殺害した戦士(侍)の未亡人を、いわば古から続く概念としての戦利品として、また神話的な財産相続の儀式として、自意識再獲得のビジュアルな対象として得ることになる。

 こうしたストーリーを、この作品は小学生でもわかるように、丁寧だがときにくどくどしく表現している。その結果、語り口が冗長になってしまったことは否めないだろう。もう少し映画技法に冴えた監督なら、冒頭と最後のシークエンスは、もっと簡略にまとめられるはずだ。

 例えば、冒頭の主人公が、射撃の腕前を披露する寸劇は、日本に向かう船に乗る主人公のフラッシュバック(回想シーン)として十分説明可能だと思う。これだけで、20分間は上映時間が短くなる。最後の主人公が天皇に刀を返すシーンや村に帰るシーンは、ドラマとしても余計なエピソードだ。合戦のシーンも、ガトリング銃(機関銃)でカツモト(主人公のライバル的存在)と主人公が、まるで『俺たちに明日はない』式に打ちまくられる描写は、物語の流れからして余計でしかない。

 映画技法に長けた監督なら、最後に二人が馬に乗って突撃するシーンでストップモーションにし、次に武士の散り際を表現する桜が散るシーンにつないで、そこに余韻を持たせるだろう(つまりは、『明日に向かって撃て!』のラストシーンだ)。これらで40分は短縮される。そう、この映画は1時間50分程度に編集されるべき内容なのだ。そして、この1時間50分という上映時間は、昔からよく出来た娯楽作品として推薦される上映時間でもある。

 結論として、この作品は、明治初期の日本をモデルにしながら、全く別の、アメリカ人にとってのファンタジーとなる世界を作り上げただけだったと言えよう(熱烈なトム・クルーズファンの皆さん、すいません)。

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