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<書評>『言語と自然』

 『言語と自然』 モーリス・メルロポンティ著(1952-60年の講義録) 滝浦静雄・木田元訳 みすず書房 1979年(原書は1968年)

言語と自然

 哲学書の翻訳者として著名な木田元によれば、ドイツの哲学者エルネスト・カッシーラーが『シンボル形式の哲学』で結論に至らなかった後を継いで、結論を出すべく試行錯誤をしたのが、フランスの哲学者モーリス・メルロポンティであり、その記録が本書にあるという。先日苦労の末『シンボル形式の哲学』の文庫本四巻を読了した私は、この木田の「あとがき」にあった言葉を糧にして、本書に取り掛かった。きちんとした結論は無理でも、前へ進むための手がかりがあると信じて。

 そういうわけで、「シンボル」という言葉をキーワードにして、カッシーラーに比べれば、講演のメモという形式から理解しやすい本書を読み進めていったところ、数ヶ所該当すると思われる(私の解釈だから、違うかも知れないが)ところがあったので、以下に抜き書きしてみる。(注:私が要点と思われるところを強調した。)

P.77-78
 「自然哲学のさまざまな試み――シェリングは必然的な存在と言うデカルトの観念を公然と問題視した。この観念はカントにとってと同様彼にとっても『人間理性の深淵』なのである。・・・『カントがその控え目な話の末に、いわばある日夢みたもの』、シェリングはこれを思考しようと試みるのであり、むしろ生き(leben)、体験し(erleben)ようと試みるのである。それが『知的直観』なのであるが、これは神秘的な能力ではなく、観念にまで切り詰められてしまう以前の知覚そのものであり、おのれのうちにまどろんでいる知覚なのであって、そこでは、私はまだ反省の主体ではないのだから、すべてのものが私なのである。このレベルにおいては、光も大気もフィヒテにおいてのように視覚や聴覚の場でもなければ、理性的存在者にとっての伝達の手段でもなく、『自然のうちに刻み込まれた永遠な根源知(urwissen)のシンボル』なのである。」

P.94
 「カッシーラーのような他の人たちは、科学の変貌は批判的観念論を正当化するにいたったと述べている。ある点では、たしかにカッシーラーは正しい。因果性についての現代の考え方は、科学的な世界像のうちに、さまざまな決定論に重ね合わさるべき他の要因(ファクター)を介入させるよう指示しているわけではない。求められているのは、つねに決定論である。人びとはただ、それをぬきにしてはもはや合法則性が無意味になってしまうような補助的諸条件を発見しているのだ。起こっているのは直観の危機であって、科学の危機ではない。カッシーラーに言わせれば、この危機こそがわれわれに、すでに批判主義が教示していたこと、すなわちシンボル体系は実在的なものとみなされるべきではないということを決定的に理解させてくれるにちがいない。

 現代物理学はわれわれを、単に『唯物論』と『唯心論』からだけではなく、あらゆる自然哲学からもまた脱却させてくれるのだ。というのも、もはや自然は『能動も受動もふくまない諸関係の集合』ということになるからである。したがってI’innere der Natur(自然の内面)に関して意味のあるような問いはもはやないことになる。けれども、批判主義へのこの還帰ということではカッシーラー自身が描いている現代物理学の諸局面さえ説明されない。なぜなら、生じている危機は彼も述べているように単に直観にだけではなく、objektbegriff(対象概念)にかかわるものだからである。」

P.114
 「観相学は表情的所作のうちに或る情動的状態の十分な徴標(記号)を見いだそうとして果しえなかったが、それは一般に表情的所作というものがそれによって強調されたり句読点を打たれたりする状況と対置されてはじめて一義的な意味をもつものだからである。だが、音楽と同様に表情的所作も、それ自体ではまだ意味はもたないにしても、すでに弁別的価値は有しており、無数の状況をくりかえし描き出すことのできるシンボル体系の構成を予告している。表情的所作こそ初次的言語なのである。」

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 それから、「シンボル」という語は出てこないが、この文脈にあると思われる、精神分析と現象学との関係に言及した箇所がある。(注:私が要点と思われるところを強調した。)

P.190
 「現象学と精神分析とが一致するとはいっても、それは、精神分析が曖昧に語っていたことを『現象』が明瞭に語ったのだ、といったふうな意味に解されてはならない。むしろ話は逆で、現象学がひそかに含意しているもの、ないしその限界において露呈するもの――つまり、現象学の潜在的内容ないしその無意識――によってこそ、現象学は精神分析に共鳴しているのである。

 したがってこの両者がたがいに混和するのは、正確には人間のうちにおいてではない。両者が一致するのは、まさしく、人間を一つの仕事場として記述し、エゴとその作用の真理、意識とその諸対象の真理といった内在の真理のかなたに、意識には支ええない諸関係、つまりわれわれの起源との関係、われわれとわれわれのモデルとの関係を発見しようとするその点なのである。

 この最後に引用した下り(「意識には支ええない諸関係、つまりわれわれの起源との関係、われわれとわれわれのモデルとの関係を発見しようとするその点なのである。」)、これこそ私が知りたいと思っている対象であり、実はヘーゲルの『精神現象学』も、これを目指して書かれたのだと思う(もっとも、カッシーラーが既に研究済みなので、そこに求める「答え」はないが)。

 それはまた、「100分で名著」で紹介されたような、社会的かつ政治的な(世渡り術のような生々しい)テーマを扱ったものではなく、「われわれの起源との関係、われわれとわれわれのモデルとの関係を発見しようとする」ものだったと思う。そして、そこにこそ哲学が哲学であることの根拠があると、私は強く思っている。

 普通の社会的政治的な(いかに上手に世渡りするか、いかに自分の欲望を実現するかなどの)テーマは、社会学者や政治学者が研究すれば良いのであって、哲学は、精神分析や心理学により近い学問であるべきだと、私は信じている。(もっとも、こういうことから「哲学は難しい」と忌避されるので、「布教活動」のために、社会的政治的側面へ「翻訳」することも、便法としてはあり得るとは思うが・・・。)

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 精神分析と現象学との関係は別にして、本書を読む目的であった「シンボル」の問題、正確にはカッシーラーの「シンボル形式の哲学」のその後の展開、あるいはその完成形はなんなのかということについては、結局、本書自体がメルロポンティのきちんとした著作ではなく、講義のメモということもあり、なにがしかの結論(理論)を得ることは、私には無理だった(もしかしたら、優れた研究者が「結論」を読み解いてくれるかも知れないが)。

 本当は、本書にある講義メモから、メルロポンティが演繹しようとしていた思考を想像することができれば良いのだが、それはメルロポンティと机を並べて、哲学研究をしていた研究者や聴講生なら可能でも、私のような末端の門外漢である一介の読者がやるのは、そもそも無理難題というしかない。

 だから、やはり「わからない」、「思考途中」という結論に私はなってしまう。それでも、「シンボル」の問題(テーマ)は、とても面白いものだと思うし、カッシーラーが延々と述べてきた観点と、本書でメルロポンティが言及した箇所から、適当にイメージを膨らせてみるぐらいは私でもできそうだし、実際にやってみても(毒にも薬にもならない上に、そもそも)問題にはならないだろう。

 その一つは、先般noteに掲載した「関係の哲学」というエッセイだが、

 この「関係」がそのまま「シンボル」と同義語になるかと言えば、それは違うと思う。しかし、全くの別物とも思わないし、むしろ「シンボル」という概念(またはエネルギー)が、私の考えている「関係それ自体の動き」に対する名称として使うこともできるのではないか、と考えている。つまり、「この関係は、シンボルによって関係づけられる」。


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