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<閑話休題>犯人探しの功罪

 私にしては珍しく、一般的な倫理についての考察をしてみた。

 一つのイメージを想像してみる。何か組織でミスが発生した場合、組織の大勢の人たちは、まるで子供のように「俺やっていないよ」と主張する一方、管理者と一緒に組織内の犯人探しをする。そして、血祭りにあげる生贄としての犯人を見つけると、管理者はその人を晒し者にし、またその他の人たちは、犯人を嘲笑と蔑みの対象にして、無責任な言葉の暴力を際限なく投げつける。

 その結果、管理者は犯人に責任の全てを押し付け、また重く懲罰することで、そのミスの処理を終えたと錯覚し、ミスが起きた原因を追究することはない。またその他の人たちも、自分たちがやがて犯人になる可能性を全く考慮せずに、一種の気晴らしのように犯人を叱責し続けることで、ミスは二度と発生しないと勝手に思い込んでしまう。

 こうした対応をした場合、容易に予想できることは、近い将来に同じ理由で同じようなミスが発生することだ。なぜなら、組織としてミスの原因(犯人ではなく、事象が発生した原因)を調査することをせず、またその原因となる事象の発生を防止することも考えないため、結果として組織の機能や体制は何も変わらず、何も改善されていないからだ。

 一方、例えば犯人とされた者が、自分自身のミスの発生につながった経緯を振り返り、どこでどのようなことがあったかを検証した場合、こうした組織の管理者は、その犯人が「自分の罪をないものとするために、反省をせずにひたすら弁解をしている」と一方的に糾弾し、その振り返る行為を認めることをしない。このため、犯人の物事を前に進めたいという誠実な気持ちは踏みにじられ、一方的に糾弾されるだけとなり、検証をしない組織はその機能が劣化することを止められない。

 そもそも人はミスをするものだ。だから、ミスをした人を誹謗中傷し、また断罪に処する行為よりも、こうしたミスが再発しないための方策を講じるほうがより重要だ。犯人を糾弾することは、犯人でない者や管理者にとっては、カーニバルの生贄のようにストレス発散できる気分の良いものであるが、それは何も結果につながらないばかりか、物事を悪化させるだけでしかないことに気づくべきだ。

 組織として最も必要なことは、人は絶対にミスをするという前提に基づき、どうやったらミスを防げるか、どうやったらミスをする可能性を軽減できるかを真摯に考えるべきなのだ。これを正しく行える組織と管理職は、組織として健全であり、恒常的にミスが軽減されることになり、その結果組織はより良い状態を長く保つことができるだろう。

 この組織という概念は、会社でもあり、スポーツチームでもあり、人間関係でもあり、家庭でもある、と思う。

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