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「スターウォーズ エピソード9」は傑作か?

今上映中の「スターウォーズ エピソード9」について、専門家とやらの解説をネットで読んだら、どうも隔靴掻痒感が強すぎて、思わず私の意見も書きたくなってしまった。

まず、「スターウォーズ」は、1970年前後の「イージーライダー」、「俺たちに明日はない」、「真夜中のカウボーイ」、「明日に向かって撃て」などアメリカンニューシネマのアンチテーゼとして登場したのではない。

そもそもアメリカンニューシネマは、フランスのジャンリュック・ゴダール(「勝手にしゃがれ」、「きちがいピエロ」)、フランソワ・トリュフォー(「大人はわかってくれない」、「アメリカの夜」)らが、ハリウッド製娯楽映画の最高峰であるアルフレッド・ヒッチコック(「北北西に進路を取れ」、「鳥」、「サイコ」)作品を研究した成果を元に始めた、ヌーベルバーグ(「新しい波」というフランス語)運動に影響されて、それまでの大衆娯楽映画に欠けていた思想性を追求することから始まったものだ。

一方、SF映画は1927年にドイツのフリッツ・ラングが「メトロポリス」(作中のロボットはC3POそのものです)を作り、1968年にスタンリー・キューブリックが「2001年宇宙の旅」を制作して、映画芸術としての頂点を築いていた。

しかしアメリカでは、パルプマガジンと呼ばれていた安っぽい紙に印刷された、今は評価されているフランク・フラゼッタが挿絵を描くSF小説が、「フラッシュゴードン」や「スーパーマン」のように、子供向けのレベルの低い娯楽作品としか見られていなかった現状があった。

そういう中で、カリフォルニア大学映画学科で、ヒッチコック、ヌーベルバーグ、そして、日本の黒澤明作品を学んでいた、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、フランシス・フォード・コッポラらが、ただただ面白い映画、映画のための映画としての娯楽作品を作ろうとしていた。その記念すべき最初のヒット作は、SFではなく、アメリカンニューシネマ路線を踏襲するベトナム戦争を背景とした「アメリカングラフティー」であったことは、ルーカスたちはむしろアメリカンニューシネマの継承者と言っても間違いでないだろう。

そして、ルーカスが最初の1作だけで終わる予定で作ったエピソード4は、黒沢の「隠し砦の三悪人」の設定やキャラクターを模倣したことは、ルーカス自身が何度も述べている。「メトロポリス」のロボットそっくりのC3POとR2D2は、大きい千秋実と小さい藤原鎌足そのものであり、近寄りがたい高貴な美しさと険しさを見せる上原美沙は、そのままレイア姫だ。そして、三船敏郎の役柄はハン・ソロとルーク・スカイウォーカーになっている。そして、何よりもダースベーダーのヘルメットは戦国武将のものをコピーしていることは、日本人には自明だろう。

こうした設定は、ルーカスが新たなSF映画を創造しようとか、アメリカンニューシネマの思想性から外れたものを作ろうとしたのではまったくない。そこからは、映画そのものが大好きなルーカスが、ヒッチコック作品に匹敵するような最上の娯楽作品を作りたいという意思を読み取るべきなのだ。

もちろん、背景にはルーカスが青年時代にベストセラーになったトールキンの「指輪物語(ロードオブザリングス)」(トールキンは世界中の神話を渉猟してこの作品を残したが、ルーカスはトールキンの世界から神話を学んだに過ぎない。第一に映画しか勉強してこなかった青年に世界中の神話を学ぶ時間も余裕もない)の影響による、世界観や家族の葛藤が描かれているが、それは物語を作るためのベースであって、それ自体は目的ではない。

観客が「スターウォーズ」の世界観に感動するのは自由だが、そこには何らの創造性や新しいものがないことを改めて認識すべきではないだろうか。その世界観は、「指輪物語」、「勇者コナン(アーノルド・シュワルツネッガーはこの役にぴったりだった)」らのファンタジーに影響された、同類または焼き直しの世界でしかないのだから。

そういう観点からは、「スターウォーズ」を傑作と称するのであれば、ヒッチコック同様に「娯楽作品」としてとの注釈が付く。そして、ルーカス、スピルバーグ、コッポラらには、思想性を持った傑作は作れなかった。それは大学で映画しか勉強してこなかったのだから、仕方ないことだろう。

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