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<書評>“Behind the SLVER FERN, Playing rugby for New Zealand”「シルバーファーンの裏側で、NZラグビーの歴史」その5

1995年RWCを迎えて、オールブラックスには新たな若手が加わった。それは、WTBジョナ・ロムー、SOアンドリュウ・マーテンズ、FLジョシュ・クロンフェルド、WTB/FBグレン・オズボーンだった。彼らの力は、イーデンパークのカナダ戦で確かなものと認められた。

ロムーは、前年のフランス戦で活躍できなかったため、NZ国内でもその価値が理解されていなかった。一時期はオーストラリアリーグのカンタベリーブルドックスに加入するつもりだった(注:もし加入していたら、大スター&大金持ちになっていただろう)が、WTBでプレーしていた元セブンズ代表のエリック・ラッシュがロムーを引き留めた。ロムーは、セブンズのプレーが好きで、この年も香港セブンズで活躍するとともに、メインズ監督の要求するフィットネスをセブンズで磨くことができた。その後、2020年に再開されるまで最後のトライアルとなった北島対南島のゲームで5トライを挙げる活躍をし、15人制でもやれる自信を持った上、周囲の人間もロムーの力を認めるようになった。

当時のメインズ監督は、Fittest & fastest team, play it as quickly as possible(フィットネスとスピードのあるチーム、できるだけ速いプレーをする)をモットーにしていたため、メインズ監督は選手の食事管理(NZ人が大好きなチップス=フライドポテトなどの揚げ物を控える)が厳しかった。 しかし、RWC開催時のホテルの朝食で、ロムーは毎日ゆで卵22個を食べていたそうだ。

1995年RWC開催後は、オールブラックスはGive the ball Jonah(ロムーにボールを渡せ)が合言葉になるほど、ロムーが大きな武器になっていた。また、南アフリカの黒人は、非白人が多くプレーするオールブラックスを大歓迎してくれたため、ロムーは一躍有名人になっていた。ある時、ロムーが歯磨き粉を買いにいったとき、群衆が集まってしまい、セキュリティーが来るまではロムーは店から出ることができなかった。この時ロムーは、もう自分は自分だけでのものではないことを初めて実感したという。

準決勝のイングラド戦は、1993年のリベンジとしてオールブラックス全員が燃えていた。そして、グランドは多くのイングランドファンで埋まっていたが、時間が経つにつれて静まり返っていく。ハカのとき、ロムーのトイメンになったWTBのトニー・アンダーウッドは、ロムーにウィンクしてきたので、ロムーは試合中に彼の顔を叩き落としてやろうと思い、それを実行している。

WTBジョナ・ロムー 歴史的な1995年RWC準決勝有名なFBマイク・キャットをカーペットにしたトライは、実はロムーはキャットに正面から当たる前にバランスを崩していたが、キャットが逃げずにいたおかげで倒れずに済んだという。もしもキャットが数歩下がっていたら、ロムーは倒れてトライできなかったかも知れない(注:もっともその場合は忠実にサポートしたクロンフェルドが確実にトライしていただろう)。

そして、有名な決勝戦となる。試合の48時間前のホテルのディナーの翌日、オールブラックスの18人とマネージャーが、酷い腹痛、嘔吐、下痢に襲われた。こうしたことを避けるために、オールブラックスはチームにNZ人の調理師を帯同しているが、彼を準決勝のあったケープタウンから決勝のヨハネスバーグに呼ぼうとしたものの、ホテル側から強く拒絶されて出来なかった。また、チームと同じホテルに宿泊していたNZ人メディアは、症状を示していない。メインズ監督は、このことを秘匿するようにした。その結果オールブラックスはノートライとなった決勝戦の80分に、SOアンドリュウ・マーテンズがDGを失敗した(SHユースト・ファンデルヴェストハイゼンが、DGを予測していたようにプレッシャーをかけてきた)。一方南アフリカは、延長戦終了直前にSOジョエル・ストランスキーがDGを決めて、地元開催、初参加、初優勝をネルソン・マンデラ大統領に贈ることになった。

【個人的見解】
 多くの状況証拠やその後「スージー」と呼ばれるホテルのメイドが、コーヒーに毒物を入れたことを証言するなど、恐らく賭けをしていた地元犯罪組織によって、オールブラックスの食事に毒物を入れられたことが明確になっている。しかし、なぜか犯罪捜査は沙汰闇になった。また、オールブラックス自身も、毒物の影響はあったものの、南アフリカの激しいディフェンスにアタックが機能しなかったこと、CTBフランク・バンスが、ゴール前でサポートプレヤーにパスをしていたらトライできたものを、自ら突っ込んでしまい取れなかったこと、マーテンズのDGが成功していれば優勝していただろうなどと述べている。

1996年は、プロ化に踏み切った年として記録される。オールブラックスは、南アフリカ、オーストラリアとのトライネーションズを開始し、運営団体としてSANZARが作られる。SANZARは渋る旧IRBをしり目に、プロ化を進めていき、オールブラックスの選手たちはNZ協会と契約することによって、順調にプロ化に応じていく。この年のフランス遠征では、選手個々に30,000NZドル(2020年9月現在では、約207万円)が支払われた。そして、この年を持ってローリ―・メインズは、オールブラックス監督を退任した。

1996年、ジョン・ハートがオールブラックスの監督に就任したのは、プロ化に際して元やり手ビジネスマンとして最適だったからだ。この年から、スーパーラグビーが開始し、NZは5チームに分かれて、125人がプロ選手としてハイレベルな試合を経験することになった。また、南アフリカ、オーストラリア、NZがホーム&アウェイで戦う、トライネーションズが開始し、それまでのテストマッチは昼間の試合という常識を覆して、ナイターで行われた。

また、ハリケーンズのクリスチャン・カレンがオールブラックスにデビューした年として記憶されている。カレンは、1995年RWCで活躍したグレン・オズボーンを押しのけて、いきなり正FBの座を得た。デビューとなるサモア戦では3トライ、次のスコットランドとの連戦の初戦で4トライを奪うなど、新たなスーパースターの誕生だった。

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FBクリスチャン・カレン

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