<書評>『裸体の森へ』
『裸体の森へ』伊藤俊治著 筑摩書房 1985年
現代美術及び写真評論を主としている著者曰く、「二十世紀の裸体」というテーマで、「『ヌードとは我々が何者かであること―それも我々自身にすらまったくなじみのない何者かであること』を我々に気づかせてくれるものなのだ。本書はその何者かであることを探すひとつの試みである」として、1984年に各種雑誌に寄稿した論考を集めたもの。
私にはナチスドイツの時代を対象にした「さかしまのヌーディズム」と、マルセル・デュシャン論となっている「二重の箱のなかの裸体」が面白く、勉強になった。さらに、「セックス・シアターのフリークス」は、最近の性の中性化やLGBTQが市民権を得ていること、さらに日本のアニメにおける奇形的な女性キャラクターのイメージを、明確に示唆しているものがあり、その先見性に感心した。
なお、本書を購入した動機は、デュシャンの「遺作」についての論考に関心があったからだ。横たわる女性像のイメージに影響したと思われる、アルフォンス・ミッシャのスタイルを真似たガスランプの広告の指摘は面白かったが、英文(原書はスペイン語研究者のもの)デュシャン研究書を読んだら、このガスランプ広告が引用されており、文学的な類推は可能だとしている。しかし、他にもパブロ・ピカソの「ゲルニカ」にまさにランプを持つ女性の姿があるなど、そのポーズを筆頭にそのままコピーしたような画像や作品が紹介されていたので、このガスランプの広告だけに言及するのには無理があると思う。
そのため、本書は私の購入目的であったデュシャン研究としては物足りなさが残ることとなったが(もともと本書はデュシャン研究書ではないので、仕方ないことではある)、著者が関心を持って研究している、現代社会における歪んだ人体のイメージと、サイボーグ化へ邁進する人類の精神構造をうまく説明していると思う。
ニーチェによれば、人は「超人」へと進化することが予測されているが、その「超人」とはニーチェが描いたような、精神的な超人ではなく、やはりコミックやハリウッド映画の世界にあるような、人工的な作られた肉体による超人になりそうな気がする。そして、著者が心配しているように、肉体は人工的に再構成=サイボーグ化できても、精神や心は人工的に作ることはできないし、サイボーグ化ももちろんできない。そこに真の「超人」になるための、最大の難問が立ち塞がっているように思う。
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